2020年9月21日でデビュー40周年を迎えた「横浜銀蝿」は、嵐、翔、Johnny、TAKUのメンバー全員が大のクルマ好きだ。目指した音楽も「もちろん車を走らせながら聴くためのロックンロールで決まり(嵐)」(『ぶっちぎり最終章』講談社刊より)。4人のうち、高校時代の同級生で、大学入学後の同じころからクルマに乗り始め、ともに遊んできた翔(62)とJohnny(62)が、ベストカー編集部の取材に熱い思いを語った。
2回に分けてお届けする翔のインタビュー後編は「中古車販売にかけた情熱」。(前編はこちら)
文:堀晃和/メイン写真:中里慎一郎
「エイトビート」を開業、売れに売れた!
銀蝿が解散したのは1983年12月31日だった。活動期間はわずか3年3カ月。昭和の終盤を駆け抜けた伝説のロックバンドはひとまず活動を終え、翔はソロ活動に入る。
相変わらず、好きなクルマいじりは続けていた。そして、ついには、平成になって中古車販売店を始めてしまう。横浜市内のマンション1階に開いた「エイトビート」だ。
「きっかけは、自分が改造したクルマを、欲しいって言う後輩たちに譲ったりしてたこと。古物商の許可を取って個人でブローカーみたいにやってたけど、会社としてやろうと思ってね」
小さな店舗のショールームには、フェラーリ1台だけを置いた。「近くに駐車スペースを広く取ってね。客の注文を受けてから、ピカピカにして持ってくる。客からすればいつもきれいな状態に見えるわけよ。店舗にあらかじめ置くと、常にきれいにしておかなきゃダメでしょ。よく売れたなあ」
客は増えた。駐車スペースにも困るようになったため、同じ横浜市内の600坪もある倉庫に移転した。常に30~40台ほど確保していたという。
実は初期のころは、アメ車には特化してなかった。「オレだということで、みんなからアメ車を求められたけど。オレがやりたかったのは、売れる車をリードするっていうのかな。大きなクルマ屋さんに負けないためには、回転率が良くて、ヒットするクルマを探そうと思ったのよ」
そこで、目を付けたのが、日産のテラノだった。日本よりも北米で人気が出たSUVだった。「2・8Lのディーゼルもあったけど、最初のころはツードアで3Lのガソリン車があった。そっちのほうが速いから。で、シャコタンにする(笑)」
出来上がったテラノを売りに出すと、速攻で売れた。「これだ」と手応えを感じた。「それで、オークション会場に行って、出てくるテラノを全部買って、隠しておくわけ。全部シャコタンにして、バンバン売るんです」
しかし、そのうち買えなくなってきた。売れるクルマだと気付いた資金力のある業者が買うようになっていたからだ。次に狙いをつけたのが、同じく日産のエクサキャノピー。これもシャコタンにしたら、飛ぶように売れた。
シボレー・アストロ改造計画
国産車の人気車を売って業績を上げていたが、次第にアメ車を扱うことが多くなってきた。ロサンゼルスやシカゴのオークション会場に行く回数も増えてきた。
本格的に販売するようになったのが1995年。アメリカでは個人売買が普通に行われていた。個人雑誌に載った情報をもとに売り手を訪ね、コルベットやキャデラックも買った。真偽は不明だが、白いキャデラックはバスケットボールのスーパースター、デニス・ロッドマンが乗っていたものだと説明を受けたという。
そのころ、日本ではシボレー・アストロというミニバンが人気を集めていた。そこで、翔はあることに気付いてしまう。アストロは左ハンドル。当時、片方にしかなかったスライドドアは右側だった。
「日本だと、右にスライドドアということは、車道側に人は降りるしかないわけ。おかしいよ、危ないよね。だから、左側にも作ろうってことになったわけ(笑)」
そこで、アメリカに直接行って、作ってくれる工場を探した。しかし、簡単ではなかった。
工場を見つけたものの、ガソリンの給油口が左側にあった。これを変えないと、スライドドアはつかないからだ。ただ、今でこそ両開きのモデルはあるが、95年当時はない。困難は伴うが、「これはできたら、絶対日本で売れる!」と確信した。
グラスファイバーで、ドアを作らせるのだが、なかなか作業が進まない。なだめすかして、やらせてようやく出来上がったのが1年半後。3台が完成した。
大きな期待とは逆に、反応は芳しくなかった。2台しか売れなかった。「経費がかかりすぎて、大損したかな(笑)」
できたドアの仕上がりも、微妙だった。「開いて閉まるだけ。ガクガクって動いて、ガッコンって。やっぱり、なんちゃってなんだよね(笑)」
でも、発想は良かったことは間違いない。子供たちの安全のために左スライドドアを作ろうとしたのだから。「“家族のための両側スライドドア”って、キャッチフレーズまで思いついちゃって(笑)。夢があったよね」
代わりに、通常のアストロはかなり売ったという。
「もちろん失敗もあるけど、アメリカに行ったことで、(クルマを輸入する際に支え合える)仲間もできた。楽しかったなあ」
そんな思い入れのある仕事だったが、97年までに会社をたたんでしまった。
「オレがやめたのは、いろんなこともあるけど、若者のクルマ離れというのかなあ。同じ情熱で話せる奴がいなくなってきた。クルマ熱を感じられなくなって、つまんなくなってきた。そういう中で、小さいクルマが出回って。日本車はやっぱりいいわけよ。ベンツもBMWも以前よりステイタスがなくなって、ベンツのAクラスやCクラスを普通の足として乗り出す人が出てきた。その中古が2、3年落ちだと100万円ぐらいで市場に出るわけよ。そしたら、そっちのほうがいいわけ。お客さんとの会話も例えば、『やっぱ、アメ車壊れますかね?』って言うのに対して、『壊れるに決まってんだろ』『ほ~ら、やっぱり壊れた』って(笑)。でも、どんなに壊れても、オレたちは投げ出さないから。そういう約束のもとに商談が成立してきた人たちがいなくなってしまった。これはもうダメだなって。もういいかと」
コメント
コメントの使い方