■デザインが革新すぎて受け入れられなかった?
4代目クラウンが誕生した1960年代は所得倍増計画が発表され、学生運動が盛んになり、1969年7月にはアポロ11号が初めて月面に着陸した。1971年2月に発表された4代目クラウンは、そんな激動の時代に開発された。
当時、デザインを最終決定する役員会議には、保守/中庸/革新それぞれのデザインが並べられた。結局、圧倒的多数で市販されたデザインが選ばれたという。デザインを担当したのは、1年間のドイツ留学から帰って来たばかりの若手デザイナーの渚徹だった。
デビューするやいなや、車体下側の丸みを帯びたシェイプがクジラのお腹部分に似ていたことから「クジラクラウン」と呼ばれ、発売当時の自動車雑誌は、こぞって絶賛の言葉を並べていた。
当時、ライバル車の230系日産セドリックとは「保守のセドリックと革新のクラウン」と言われた。三角窓をなくし、カラードバンパーといった革新的な装備を投入し、空力や安全性に向けての解答がスピンドルシェイプだった。しかし、2重ボンネットは左先端が見えづらく、トランク容量が不足。それはデザイン優先の弊害と指摘された。
発売当初、販売は順調だったが、発売半年後の夏、渋滞によってオーバーヒートが多発。ラジエターから放出された熱が凹みの部分で再循環してしまい、熱がこもってオーバーヒートしてしまうのだ。タクシーの注文も激減し、230セドリック&グロリアの後塵を拝してしまう。
トヨタは、急ぎ、バンパーに空気孔を設けて風通しをよくしたり、対策を施したが販売は元には戻らなかった。1973年2月にはグリル、トランクを含めたリア周りの金型まで変更するなど大がかりなスタイル変更を行うとともに、電磁ドアロック、プリントアンテナ、リアパワーシートなどの装備を充実させたマイナーチェンジを行った。
一度落ちた評判はなかなか戻らないのが常である。しかも販売不振の理由が、メカニズムの欠陥から「スピンドルシェイプが悪い」と革新的なデザインにすり替わっていた。当時の販売台数を調べて見ると、230系のセドリックは28万6281台、230系のグロリアは10万2226台で、4代目クラウンは28万7970台と惨敗してしまった。
トヨタとしては看板車種に、時代の先をゆく先駆車として“挑戦”を試みたわけだが、結果として、クラウン史上最大の失敗作と言われてしまったのである。
4代目クラウンの開発主査、小室武氏は営業面では失敗したが、一方でクラウンの開発はけっしてひとりよがりで進みすぎてはいけない。ユーザーが求める時代の”少し先”を行くのがよいという大きな教訓を残してくれたと後日語っている。また、その後のクラウンの立ち位置を確認するきっかけとなったという。
クラウンの開発テーマは常に”継承と革新”。保守を継承すれば、高齢ユーザーばかりになり、若いユーザー層を取り込まなければいけないと思えば、革新は必須。しかし、先に行き過ぎてもそっぽを向かれてしまう。
4代目誕生から53年、16代目クラウン(クロスオーバー)の登場から2年あまり経った今、現行クラウンはいい線をいっているように思う。ほぼおじさん世代しか乗っていなかった「オヤジのクラウン」像が打ち破られ、劇的に若返った。
まさかクラウンシリーズの第一弾としてクロスオーバーが登場するとは夢にも思わなかった。そしてSUVのスポーツ、FRサルーンのクラウンセダン、近々にはエステートが登場するという、このラインナップを誰が想像しただろうか。
16代目の現行クラウンシリーズは「歴代クラウン最大の革新車(大ヒット車?」と言われる日が来るかもしれない。みなさんはどう思いますか?
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