2014年11月に逝去した自動車評論家、徳大寺有恒。ベストカーが今あるのも氏の活躍があってこそだが、ここでは2014年の本誌企画「俺と疾れ!!」をご紹介する。(本稿は『ベストカー』2014年5月10日号に掲載したものを再編集したものです。著作権上の観点から質問いただいた方の文面は非掲載とし、それに合わせて適宜修正しています)。
S・モスの想い出
3月が終わりすっかり春めいてきた。
毎朝耳にする鳥の声はにぎやかで、庭の草木にもみずみずしさが戻った。
我が家のカレンダーも3月から4月へと1枚めくることになる。書斎には自動車メーカーのカレンダーがいくつかあり、ふと目にとまったのがマゼラーティのものだ。
マゼラーティは今年100周年を迎えた歴史ある自動車メーカーでF1でも多くの勝利を挙げてきた。なかでも250Fは強力な直列6気筒エンジンを搭載し、1950年代の7年間にF1を始めとして55勝を飾っている。
特に1957年シーズンはアルゼンチン人のファン・マヌエル・ファンジオとイギリス人のスターリング・モスという最強コンビでチャンピオンに輝いた。
モスはその前年マゼラーティチームで2勝したが、1957年シーズンの途中からヴァンホールチームに移籍したため、このゴールデンコンビは長く続かなかった。そのモスは1958年シーズンでヴァンホールチームをコンストラクターズチャンピオンに導いている。
「無冠の帝王」と呼ばれるスターリング・モスだが、ドライバーズタイトルでは地元イギリスGPで初優勝した1955年はメルセデスで2位、2勝した1956年はマゼラーティで2位、3勝した1957年はヴァンホールで2位、ヴァンホールで3勝、クーパークライマックスで1勝と合計4勝した1958年も2位と4年連続で2位に終わったが、何に乗っても速かったことがわかる。
ちなみにそれぞれチャンピオンは1955~1957年がファンジオで1958年はフェラーリに乗った同じイギリス人のマイク・ホーソンだ。
F1以外も速く、1955年はメルセデスベンツの300SLRに乗って世界スポーツカー選手権を制したほか、ミッレミリアでは平均速度記録を更新している。
スターリング・モスの活躍で忘れられないのが、1958年の開幕戦、アルゼンチンGPでプライベートチームのロブ・ウォーカー・レーシングから参戦し、優勝をさらったことだ。
ロブ・ウォーカーはその名のとおり、スコッチで有名なジョニー・ウォーカーのボスである。これがミドシップエンジンのF1が初めて勝ったGPであった。
今ではミドシップが当たり前だが、当時はFRからの過渡期であったのだ。ちなみにロブ・ウォーカーはモスの友人であり、彼は友人とイギリスのために走り、勝ったのだ。
そのモスがロブ・ウォーカー・レーシングで1960年と1961年にドライブしたのがロータス18だ。このマシンはコーリン・チャップマンが設計したモデルで、モナコGPとアメリカGPでモスが優勝を飾り、旋風を巻き起こした。巨額の予算をかけたフェラーリやマゼラーティ勢を抑え、モナコGPで勝った瞬間はとにかく痛快だった。
オーストラリア人ドライバー、ジャック・ブラバムが、1959年と1960年クーパークライマックスチームで連覇しているが、同じクライマックスエンジンを搭載したことで、ロータスも速かった。
当時のスターリング・モスへのインタビューに面白いものがあった。「あなたにとって理想のクルマは何ですか?」というものだ。彼の答は、「シヴォレーのATだよ。だって私はレースで何千回もシフトチェンジしているんだから」というものだった。
そのモスは絶頂期であった1963年突如引退してしまう。前年にグッドウッドで行われたレースで大事故を起こし、一時昏睡状態に陥るほどの重傷を負い、復帰を目指したが精神面で集中できないと決意したのだ。
結局、彼は1度もチャンピオンになれなかった。1962年グッドウッドで事故を起こす前にフェラーリのエンツォが誘い、1961年のチャンピオンマシンF156に乗る話がまとまったていたというが、フイになってしまった。乗っていれば勝っていたかもしれない。しかし、イギリスにこだわり、結果として無冠に終わったモスが私は好きである。
モスはF1で16勝を挙げ、勝率では24%強と、かのセナやプロストが25%強だから変わらない。けっして強いチームを渡り歩いたわけではないことを考えると驚異的だと思う。
ちなみに私は彼のパッセンジャーシートに3度乗るチャンスがあった。ロータス・コルチナとロータス・エランが1度ずつ、もう一回はメルセデスベンツのテストコースで300SLRに乗った。彼と何を話したかは覚えていないが、とにかく興奮したことはいうまでもない。


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