クルマの印象は、走り出す前から少しずつ決まっているのかもしれない。今回参加したマツダ体験会では、広島と山口に根を張ってきたメーカーの歩みと、いまの生産現場を支える技術の積み重ねをじっくり見てきた。そこで見えてきたのは、2026年のマツダがただ新型車を並べるだけではなく、ものづくりそのものの磨き込みに本気で向き合っている姿だ。
文:ベストカーWeb編集部/写真:マツダ、ベストカーWeb編集部
【画像ギャラリー】マツダ車が出来上がっていく工程を大公開!! 防府工場の驚くべき技術力!!(22枚)画像ギャラリー2026年、マツダはやる気十分!!
ローマは1日にしてならず。まさに日本のものつくりにぴったりな言葉だろう。そのことを存分に感じさせてくれたメーカーがある。マツダである。
2026年3月6日から7日にかけて、主に若手の自動車関係メディアの編集者を対象とした「マツダ体験会」が開かれた。以前は頻繁に開かれていたと聞くこの体験会。自動車メディアに携わる人たちに、マツダのことをより深く知ってもらおうという意図で開かれていたそうだ。
コロナ禍などもあり一時中断していたようだが、満を持して久方ぶりの開催となった。
さて、肝心の体験会であるが、上述の2日間にわたって行われ、初日はマツダの歴史やマツダのクルマを支える技術および工場の紹介がメインとなった。
ものつくりは山陽にあり!
マツダは、本社が安芸にあることから、広島における産業と密接に関わってきたあるメーカーである。元々、広島は古代よりたたら製鉄で有名な地。そこから金属加工の技術を活かし、時も下った近世期には広島針などを製造してきた。
大正期に入れば、その後マツダのクルマつくりにも関わる西川ゴム、モルテンを代表とするゴム産業も発達したほか、鉄道や軍関係の工廠が建設されるなど、まさに「ものつくり」の一大都市として広島は発展していった。
マツダも当然、そうした流れと無関係ではない。マツダはもともと1920年に広島で、コルクの製造を手掛ける東洋コルク工業株式会社として発足し、その7年後に東洋工業株式会社として機械事業に進出した。1931年には「初めて」のクルマとして、3輪トラック マツダ号DA型の生産を開始している。
そして、マツダを語る上で欠かせないのが、原爆からの復興だろう。この時、東洋工業は数少ない焼失を免れた大規模施設として、多くの団体・企業に場を提供することとなった。まさにオール広島のような状態での復興でもあり、その中心地となったのがマツダだったのだ。
【画像ギャラリー】マツダ車が出来上がっていく工程を大公開!! 防府工場の驚くべき技術力!!(22枚)画像ギャラリー課題が降りかかる度に乗り越えていったマツダの歴史
その後、東洋工業にとって初となる4輪乗用車R360クーペを皮切りに、現在の乗用クルマメーカーとしてのマツダへと繋がっていく。だが、マツダ史のなかでもとくに言及が避けられないのが、やはりロータリーエンジンだろう。
ロータリーエンジン誕生の詳細な背景は、省略させていただくが、結果から言えばマツダは困難や課題が降りかかってくる時こそ、世をアッと驚かすクルマを生み出してきたのだ。
たとえば、国内自動車メーカーを「量産車(普通乗用車)」、「特殊乗用車(高級車)」、「ミニカー(軽自動車)」の3グループに統合させてしまう通産省による「3グループ構想」。つくれるクルマが制限されてしまうこの構想に東洋工業は良しとはしなかった。
そこで目を付けたのがロータリーエンジンだった。東洋工業は、ロータリエンジンでメーカーとしての独立性や業界再編計画を乗り切ろうとした結果、名車コスモスポーツを生み出すこととなる。
また、高度経済成長期もう一つの側面である公害や排出ガス規制を大幅に強化するアメリカのマスキー法、あるいはオイルショックなどの困難に直面した際もマツダのロータリーエンジンは輝かしい結果を残してきた。
そして、ロータリーエンジンは、スポーツカーだけでなくロードペーサーAPやコスモAPのようにAnti Pollution(公害対策)の称号をもつクルマへと結実していく。
体験会では、こういったマツダや広島における産業の歴史が、存分に語られた。そして現在、かつての公害対策やオイルショックなどのように、「カーボンニュートラル」という人類にとっての新たな課題が存在している。
マツダがその課題を乗り越えるのに重要な地域が、実はこの体験会が開かれている山口なのだ。

























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