クルマ好きなら誰もが知っている“あの”伝説、神話……。当時、その現場では“なに”が起こっていたのか? 伝説、神話の当事者が、神話誕生の“真実”を語る!! 今回は長谷見昌弘、星野一義、鈴木利男が振り返る、1992年、デイトナ24時間レースの裏側(本稿は「ベストカー」2013年5月10日号に掲載した記事の再録版となります)。
文:片岡英明/写真:日産、ベストカー編集部
■デイトナ24時間レース優勝までの意地とプライド
自動車メーカーの技術レベルを推し量るのに最適なレース、それは数千キロのかなたにあるゴールを目指す耐久レースだ。
サーキットにおける耐久レースの頂点に立つのが24時間レースである。フランスのル・マン24時間レース、ベルギーのスパ・フランコルシャン24時間レースとともに「世界3大24時間レース」のひとつに数えられているのが、アメリカのフロリダ州デイトナビーチで開催されているデイトナ24時間レースだ。
ウィナーにフォードGT40やフェラーリ330P4、ポルシェ917、935、962C、ジャガーXJRなどのビッグネームが名を連ねるデイトナ24時間レースは、ル・マン以上に過酷な24時間レースといわれている。
バンクを持つ超高速のオーバルコースはマシンだけでなくドライバーに大きな負担を強いるし、インフィールドのテクニカルセクションはタイトだからドライバーを休ませてくれない。
1991年、日産とモータースポーツ部門をつかさどる「NISMO」はスパ・フランコルシャン24時間レースにグループA仕様のスカイラインGT-Rを投入し、圧倒的な速さで優勝を飾る。
この年、日産とNISMOはデイトナ24時間レースにも参戦する計画を立てていた。
1月上旬にデイトナのテストデーに参加し、いい感触を得ている。だが、レース本番が間近に迫った1月17日に湾岸戦争が勃発。上層部の判断で出走を取りやめた。
日産ワークスのリーダー格で、テストに臨んだ長谷見昌弘は、
「正月返上でアメリカに行き、日産のグループCカーを走らせたのですが、感触はよかった。たくさんのデータを取ることができ、さあ本番だ、と意気込んでいたら湾岸戦争が起こって参戦計画がポシャってしまったんです。でも次のデイトナまで1年あったから入念に準備ができました。だから1992年のデイトナではラクにレースができたんです」
NISMOは誕生した直後から、スポーツプロトタイプのグループCカーの開発に携わっている。
1985年秋のWECインJAPANでは、雨のなか、シルビア・ターボCを駆る星野一義がウィナーとなった。
その後も積極的にCカーの開発を行ない、1986年からはル・マン24時間レースにも挑戦している。
1988年からはライバルに先駆けてテレメトリーシステムを導入した。また、ローラをパートナーに選んでマシンも共同開発している。
ニッサンR90CPからは内製比率も大幅に増え、エンジンも一気にパワーアップした。この年、JSPC(全日本スポーツプロトタイプカー選手権)で念願のシリーズチャンピオンに輝いている。
ル・マン24時間レースでも驚異的な速さを見せつけた。デイトナ制覇を目論んだ後継のニッサンR91CPもJSPCのシリーズチャンピオンを獲得する。
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