1980年代半ば、日本国内のバイクブームは最高潮を迎え、国内4メーカーは次々と新しいモデルを市場に投入し、バイク自体の性能は恐ろしく向上していく。それを引っ張った要因の一つがモータースポーツシーンからのフィードバックである。そう、レーサーレプリカブームの到来である。その一つの頂点が、世界ロードレースグランプリ(WGP)の最高峰クラスGP500に参戦している各ワークスマシンの生き写し。これを市販ロードモデルとして、盛り上がりを見せる市場に投入することであった。そして、1984年、ヤマハから登場した2スト500㏄モデルが「YAMAHA RZV500R」であった。
これこそが我々が望んでいたモデルだ
空前のバイクブームが盛り上がる中、2スト250㏄モデル、そして4スト400ccモデルの中に突如としてレーサーレプリカと呼ばれるモデルが現れ、市場に次々と投入されていく。その究極のモデルはやはりGP500マシンのレプリカである。WGPn位参戦する3メーカーからほぼ時を同じくしてGP500モデルのレーサーレプリカが出たのである。ホンダNS400R、スズキRG400/500ガンマといった具合だ。そして、だがしかしヤマハ発動機だけは500㏄にこだわった。
1984年5月15日に登場したヤマハRZV500R。84万5000円というプライスタグをつけてきた。当時のヤマハ車の中で最も高価なモデルはXJ750Eの68万円である。それを軽く上回る超弩級なプライスタグをつけて登場したこの2スト500モデルは、限定解除免許が必要で、RZVに乗るために教習所に通う者もいたという。まさにそんなモデルであるため、羨望のまなざしを向けられることも多かった。
前年の東京モーターショーで出品されたプロトモデルがほぼそのままで登場したRZVは、角アルミ製のダブルクレードルフレームに水冷V型4気筒500㏄エンジンを積む。前バンクと後バンクそれぞれの2軸クランクの構造を持ち、吸気方式が前はクランクケースリードバルブ、後ろはピストンリードバルブとまるで2つのエンジンを組み合わせたようなエンジンとなっており、国内仕様は64psを発揮した。4本のマフラーは、前バンクからの2本はエンジン下部を通るが、後バンクからはシート下で一度クロスし、シートカウル内を通って後方に出すことになり、リアサスは、エンジン下の前バンクのマフラーの間に前後方向に水平に置く形式を採用している。
RZVはその短いモデルサイクルの中で、一度だけ小変更があった(識別として前期型を51X、後期型を1GGと呼ぶ)。その後期型が登場したのは1984年12月のこと。つまり、RZVは単年で完結してしまったモデル(1985年の販売台数は99台のみ)ともいえる。よく販売台数が語られることがあるが、販売不振という発言はナンセンスで、意味がない。当初は1000台限定での販売予定だったといわれているが、国内の総販売台数は3697台となる(その内訳は前期型2599台・後期型1098台となる)。1000台限定説の真意は不明だが、もしそれが本当ならば追加で生産に入ったということになり、それならば予想よりも営業面で成功したという評価のほうが良いだろう。そもそもそんな数字よりも、このモデルの存在感、そしてその登場によって成し遂げた社内の機運と業界の盛り上がりといった成果を見れば、数字は意味をなしていないことはおのずとわかるだろう。
ちなみにマイナーチェンジについては、その内容を見ればわかる通り、市販前から予測できていたことで、それを当初の発売に間に合わせられず、織り込めなかったということだと推測できる。その詳細をここで書き記しておくと、シート下にグラスウールのプロテクターが備えられ、熱対策が取られている。2ストオイルタンクにサブタンクが設けられ400ccの容量アップとなった。また、このオイルタンクやクーラントリザーバータンクの色が黒から若干薄くなり、うっすらだが内容量を確認できるようになっている。さらに出力特性の変更があってCDIも変更している。外観上で違いが判るのが、上バンクのテールエンドが伸びたこと。そして下バンクのサイレンサーが半艶から艶消しアルマイトに変更となり、そのサイレンサー取り付け部のチャンバー側の形状が丸型から角型に変更となってもいる。メーター周りではスピードメーターのレッドゾーン表記がなくなり、警告灯もなくなった。ほかにも、トップブリッジのキーガードが追加となった。さらに細かなところでは、アンダーカウル取り付けステー、ミラーの取り付けねじ、エアクリーナーボックスなども変更を受けている。
コメント
コメントの使い方