日産とホンダの統合検討が発表され、世間をざわつかせている。振り返ると、日産はこれまで何度も統合繰り返し、再建しては再び立て直しといった流れの連続である。今一度、日産が辿ってきた歴史を振り返っていこう!!
文:片岡英明/写真:日産、ベストカーWeb編集部
【画像ギャラリー】日産初の電気自動車はリーフじゃない!? [たま電気自動車]と[ハイパーミニ]の存在を覚えているか!?(16枚)画像ギャラリー■1933年に日産は産声をあげる
産自動車のルーツは、日本産業と戸畑鋳物の共同出資で1933年(昭和8年)12月26日に設立した「自動車製造株式会社」だ。
ダット自動車製造から権利を買い取ったダットサンと、自動車部品の製造を行っていたが、翌1934年6月に日本産業の全額出資となり、日本産業を略した「日産自動車」が誕生したのだ。
だが、日本は第二次世界大戦で敗戦し、財閥は解体。多くの人は転業に追い込まれた。自動車産業は未熟だったため、転業に追い込まれることはなかったが、大打撃を受けたのは航空機業界だ。平和産業へと転身を命じられている。
その1社が、戦時中に中島飛行機の隼やキ-74遠距離爆撃機などを生産していた、機体専門メーカーの立川飛行機。もうひとつは、愛知航空機である。
民需転換に伴って社名を新愛知起業としたが、のちに愛知機械工業に改称した。立川飛行機の有志は1947年に東京電気自動車を設立し、バッテリーEVの「たま号」を発売している。
その後、たまジュニア、たまセニアなどを開発するが、経営難に陥った。日本タイヤ (後のブリヂストン)から資金援助を受け、たま電気自動車に社名変更。プリンスセダンを送り出した直後、たま自動車を名乗ったが、1952年11月に社名をプリンス自動車工業に変更している。
1954年4月、中島飛行機の流れを汲む富士精密工業と合併して社名を変え、1957年4月にはスカイラインを、1959年2月にはグロリアを送り出した。その後、再びプリンス自動車工業に社名変更している。
この時期、日産と提携していた民生ディーゼルも、社名を日産ディーゼル工業に変更した。1960年代、日産はトヨタとともに日本のビッグ2の一角を占め、生産と販売を大きく伸ばしている。
【画像ギャラリー】日産初の電気自動車はリーフじゃない!? [たま電気自動車]と[ハイパーミニ]の存在を覚えているか!?(16枚)画像ギャラリー■業界を騒がせたプリンス自動車との合併劇
さらなる飛躍を目指して、日産は1962年11月にオート三輪の分野で名を知られ、コニーを開発・販売していた愛知機械工業と技術提携を締結。1965年には本格的な業務提携へと発展させた。
愛知機械の販売系列を使って「日産コニー店」を立ち上げ、「チェリー店」や「パルサー店」に引き継がれる。自社ブランドの生産から撤退した後も、エンジンやトランスミッションを手がけ、セレナやラルゴ、サニートラック、パオなどの生産も行った。CVTやR35GT-RのGR6型DCTも愛知機械製だ。
同じ時期に画策したのが、自動車業界3位の座を争っていたプリンス自動車工業との合併劇である。飛行機屋を自認するプリンス自動車は高い技術力を誇り、スカイラインとグロリアだけでなく天皇の御料車のロイヤルも試作していた。
レースでも群を抜いて速かったが、経営状況は苦しかったのである。苦境を乗り切るため首脳陣は提携先を探っていた。日産は大手銀行の仲介を伴い、極秘裏にプリンス自動車の首脳陣と接触し、説得に当たっている。
そして1965年5月、日産はプリンス自動車との合併覚書に調印することに成功した。翌1966年8月には、会社組織すべてを日産に吸収する形で合併を終えるのである。これ以降、グロリアもスカイラインも日産ブランドの一員となり、パーツの共用化も増やした。
また、メインバンクが同じ富士重工業(現・スバル)とも1968年に業務提携を結んだ。1970年代になると、日産のチェリーやパルサーなどの委託生産を請け負わせ、工場稼働率を高めている。両社は蜜月の関係にあり、一部は部品の共用化も行った。
だが、1990年代後半に日産の業績が一気に悪化してルノーにすがったため、1999年に提携を解消している。
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コメント
コメントの使い方日産自動車の出来たのは、快進社よりダットサン製造権を譲り受けた。快進社に資本を出していた鉱山王と呼ばれた久原房之介が、義弟の鮎川儀介に話を持ち込んだのが始まり。
日産は元々他社と違って、独自開発車両から起業した会社ではない。本文にもあるように、愛知機械工業、そして日本初の4駆くろがね4駆を開発した内燃機関工業(合併当時は東急くろがね)をも傘下に収め、現在の日産工機とした。。日産は戦後ノックダウンで英国オースチン社のオースチンA50 ケンブリッジを製造販売等、自社開発の弱い企業である
記事内容に一部不正確な部分があります。まずプリンス自動車との合併ですが、これは当時の通産省が当初トヨタに合併を打診しましたが、プリンスの負債額が大きく、また競合車種ばかりであり、メリット無いと判断したトヨタは、共倒れになりかねないと断った。その後日産にこの話を持ち掛け川又 克二社長が数字上でトヨタを追い越せると判断。合併した。