■カルロス・ゴーンの失踪と迷走劇の再開
日本は1991年にバブルが崩壊し、自動車の販売は落ち込んだ。日産は積極的な海外進出が重荷となり、ヒット作もなかったために資金繰りに行き詰まる。経営破綻を避け、再起を図るためにダイムラー・クライスラーの資本を受け入れようとしたが、断られてしまう。
紆余曲折の末に救いの手を差し伸べたのが、フランスのルノーだ。カルロス・ゴーン氏が派遣され、CEOに就任するとコスト削減と人員整理に大ナタをふるっている。
ルノーの連結子会社となった日産は、軽自動車の販売に乗り出した。2003年に三菱からOEM供給の形で持ち込まれたクリッパーの販売を開始。2005年にはeKワゴンをオッティの名で発売している。
その三菱が燃費偽装問題で苦境に立たされたのを見て、日産は2016年5月に戦略的アライアンスを締結。日産は三菱自動車株34%を取得して筆頭株主となった。
だが、この直後に日産を引っ張ってきたゴーン氏が失脚し、日産は方向性を見失ってしまう。ブランド力は著しく低下し、長期的な成長戦略も見えなくなっていた。そのため北米市場だけでなく、中国市場でも販売は低迷する。またしても倒産寸前の危機に瀕したのだ。
日産は経営の立て直しを図るために、他メーカーとの提携や合併を模索するようになった。そして2024年12月、ホンダとの経営統合を検討を発表。将来的には三菱自動車が合流する可能性についても明らかにしている。
日産は90年数の間に多くの会社を吸収しては、世界有数の自動車メーカーにのし上がったが、これが対立の構図も生み出している。派閥争いや権力争いが常態化し、罪をなすりつけて誰も責任を取ろうとしない。この悪習を断ち切り、グループ一丸、全社一丸となって立て直しを成し遂げてほしい。
【画像ギャラリー】日産初の電気自動車はリーフじゃない!? [たま電気自動車]と[ハイパーミニ]の存在を覚えているか!?(16枚)画像ギャラリー
コメント
コメントの使い方日産自動車の出来たのは、快進社よりダットサン製造権を譲り受けた。快進社に資本を出していた鉱山王と呼ばれた久原房之介が、義弟の鮎川儀介に話を持ち込んだのが始まり。
日産は元々他社と違って、独自開発車両から起業した会社ではない。本文にもあるように、愛知機械工業、そして日本初の4駆くろがね4駆を開発した内燃機関工業(合併当時は東急くろがね)をも傘下に収め、現在の日産工機とした。。日産は戦後ノックダウンで英国オースチン社のオースチンA50 ケンブリッジを製造販売等、自社開発の弱い企業である
記事内容に一部不正確な部分があります。まずプリンス自動車との合併ですが、これは当時の通産省が当初トヨタに合併を打診しましたが、プリンスの負債額が大きく、また競合車種ばかりであり、メリット無いと判断したトヨタは、共倒れになりかねないと断った。その後日産にこの話を持ち掛け川又 克二社長が数字上でトヨタを追い越せると判断。合併した。