今でこそ自動車業界の中心的な存在で、日本が誇る世界的な大企業に成長したトヨタだが、決して順風満帆の歴史を歩み続けてきたわけではなかった。トヨタを率いてきた歴代社長の体制をもとに、歴史を振り返る。
※本稿は2023年4月のものです
文/佃義夫、写真/ベストカー編集部、トヨタ自動車
初出:『ベストカー』2023年5月26日号
■順風満帆ではなかった豊田家
「一、研究と創造に心を致し、常に時流に先んずべし」
これはトヨタの始祖である豊田佐吉翁の遺訓をまとめた「豊田綱領」の代表的な文言で、トヨタ自動車とグループ各社のトップに伝承される経営訓だ。
豊田章男氏の言う「はた織り屋がスタート」の豊田自動織機製作所自動車部から独立したトヨタ自動車工業の草創期は、苦闘の連続だった。
戦後、協調融資で銀行主導の再建と大労働争議の責任をとって実質創業者の豊田喜一郎氏が辞任して大番頭格の石田退三氏が社長に就任し「自分の城は自分で守れ」と発した名言もトヨタのDNAである。
トヨタの歴史を振り返ると、豊田家からのトップと番頭政治や個性派プロパーの登用トップが、4月に就任した佐藤恒治社長の12代目でちょうど半々となる。その流れのなかで「愚直なまでのトヨタウェイを徹底」し、苦難の時期も「自分の城は自分で守れ、常に危機意識を持つ」ことで乗り越えてきた。
かつてトヨタを語る時、「三河の田舎企業」、「三河モンロー主義」などが付いて回った頃もある。
つまり、トヨタは豊田家を中心に固い結束を誇ってきた反面で愛知県三河の豊田市に本拠を置いて中央に出たがらないという見方だ。また、「乾いたタオルを絞る」とムダを徹底的になくすトヨタイズムも世間から功罪相半ばするトヨタの姿勢として受け止められてきた。
しかし、工販分離で磨いたトヨタ生産方式(TPS)と、強固な販社網が「強いトヨタ」の根底にある。
豊田家からは「トヨタ中興の祖」とされる5代目社長の豊田英二氏と、工販合併で「トヨタ自動車」社長に就任した6代目の豊田章一郎氏が重厚なトップとして評価され、章一郎氏はその後、トヨタ初の経団連会長も務めてグローバルな視野を広げて名実ともにトヨタを日本の代表製造企業に確立させた。
コメント
コメントの使い方奥田碩氏は功罪がはっきり現れた人。例えばコスト削減が行きすぎ、品質低下を招きリコ-ルが増えた。また職場に派遣労働者を入れたり、組織の若返りで年功序列を廃止した。このことから指導ができない管理職が増え、品質低下にもつながった。
その反面業績は上向きとなったけど(日産が自らこけたからね。それに助けられた面もある)