ニュルブルクリンク24時間レースに参戦してきたSTI(スバルテクニカインターナショナル)チーム、総監督をつとめてきた辰己英治さんが今期をもって総監督を退任します。辰己さんといえば初代レガシィの開発等、スバル車の基礎をつくってきた日本を代表するカーエンジニア。自動車評論家の鈴木直也さんによるインタビューで、ニュルのお話や、辰己さんが考えるクルマ作りについて伺いました。
文・インタビュー:鈴木直也、写真:奥隅圭之、提供:SUBARU
有終の美を飾るニュルSP4Tクラス初優勝!
鈴木直也さん(以下、S) まずはお疲れ様でした。最後のニュルは天候の問題でちょっと中途半端な終わり方でしたが、ちょっと不完全燃焼という感じですか?最後の終わり方はどんな感じだったんでしょう?
辰己英治さん(以下、T) 残り2時間くらいでとりあえずペースカー先導で5ラップするというアナウンスがあって、計算すると残りの1時間くらいはガチのレースになると、われわれを含めてみんな計算していたんです。ところがねぇ、その5周でチェッカーが出てオシマイ(笑)
S それは予想外ですね(笑)
T われわれとしては、23年に対してさらに改良して改善していった結果は十分示せたので、そんなに思い残すこともないですが、秒差でトップを争っていた連中は、突然ゴールチェッカー振られて「え、終わり?」みたいな。
「お金を使い過ぎて大変なことに」辰己さんが手掛けた初代レガシィ開発話
S ニュルのお話からぐっと遡りますが、辰己さんがスバルに入社された70年代のスバルって、今からは想像もつかない会社でしたよね。当時、どんなことを思ってましたか?
T スバル1000の時代は知らないんですが、当時のレオーネについては素朴な疑問として「なんか走りがつまんないな」という思いはありました。もちろん、それをスバルの技術者が満足して造っていたわけじゃなくて、要するにお金がないんですよ。スバル1000の遺産で、ガワだけ換えるくらいしかできなかった。
S そんなスバルが飛躍するきっかけが初代レガシィでした。
T 80年代の半ばくらいに「今までのレオーネじゃなくて、なんかすごいもの作ろうぜ!」という動きが出てきたんです。レオーネの性能に誰も満足してないんですよ、技術屋もデザイナーも。すごいもの造りたいという機運がスバルの中にふつふつと湧き上がってきて、それが最終的に初代レガシィに結晶する。結果的にはお金を使いすぎて大変なことになるんですけど(笑)
S でも、よく考えてみると90年頃にものすごく無駄遣いをしたおかげで、そこから30年ぐらいその遺産でメシが食えてるわけじゃないですか。
T 短期的には無駄遣いに見えても、長い目で見ると役に立つ投資ってありますよね。レガシィを開発していた時代のあと、もう1回2000年過ぎぐらいに、たくさん予算をもらって勉強させてもらった時期がありました。先行開発で、クルマをもっと根本的に見直してみようっていう提案が会社に認められて、ボディーをいろいろ研究する機会をもらったんですね。
S なんか屋根切って実験車を作られたって話聞いたことあります。
T 4台ぐらい作りました、オープンカー。で、それがね、本当に目から鱗みたいなことが起きるんです。要するに、衝突安全モデル優先でボディを作ると、数値上すごい剛性値の高いボディができるんだけれど、走ると旋回内輪が浮いたり良くないことも起きる。で、わたし、ボディを縦に切ってみたことあるんですが、すると操安フィールがあきらかに良くなる。
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