1985年3月17日、100台のスーパーシャトル(連節バス)が一斉に動き出した。霧雨で煙る学園都市の中を、白と緑のスマートな連節バスが走っていく。この光景を見て、当時の国際科学技術博覧会協会バス輸送対策室の室長・今井民雄さんは、胸の奥が熱くなるのを覚えた、と地元新聞社の取材に応えていた。
(記事の内容は、2021年9月現在のものです)
執筆・写真(特記を除く)/諸井泉(元シャトルバス中央事業所第6グループ運営管理者)
※2021年9月発売《バスマガジンvol.109》『日本を走った初めての連節バス』より
■期間限定・ルート限定で特別に許可された連節バスの運行
これまでは日本の道路では走ることができなかった連節バスが、当時の運輸省と建設省、警視庁の協力により、半年という期間限定とはいえ、ついに走り始めた。
バスは全長18m、重量24.1t、幅2.5m、高さ3.1mである。当時の道路運送車両の保安基準によれば、日本で走れる運送車両の最大制限は長さ12m、幅2.5m、高さ3.8m、総重量20tで幅と高さは制限内だが、長さで6m、重さは4.1tほど基準をオーバーする。
博覧会協会は当初、大阪万博のように常磐線からの鉄道引き込み線方式や、神戸のポートライナーのような新交通システムを検討していた。しかし、採算が取れないことがわかるとバス輸送が決定され、科学万博に相応しい連節バスの導入が推進された。
そして1984年12月に、6カ月の期間限定と運行道路を指定した「特別措置」として、ようやく許可されたのであった。
連節バスは車体の長さも重量も在来のバスを大きく上回るものの、燃料は在来のバスと同じ軽油である。
連節バスのエンジンはスウェーデン・ボルボ社製の6気筒横置きで、排気量9600cc、トラクター並みの276psを誇る。
在来バスより約50psほど強力で車体重量も24.1tもある。座席数53、立ち席108、運転手1で定員162人を乗せて走ればさらに重くなる。誰もが在来のバスより燃費は悪いと考えていた。ところが実際の燃費は驚くほど良かった。
在来のバス(15t~18t)の燃費が1L当たり約2kmであるのに対し、開幕から3月末まで1台平均1日210キロを71リットルで走行。1リットル当たり約3キロで2キロ以下という予想を大きく上回った。
この燃費の良さを支えていたのは、当時のバスでは珍しいコンピューター連動の自動変速装置(AT)が付いていたことも貢献している。前進は自動的にギアが変わり、適正な量の燃料噴射が行われていた。
加えてノンストップ交通システムが挙げられた。万博中央駅と万博会場北ゲート間のバス専用レーンは信号の手前約150m付近にセンサーがあり、バスが信号に差し掛かる頃になるとちょうど青信号に変わるようになっていた。
■連接バスが高効率運行するため道路や信号も対策を施した
運行フログラムではさらに、交通量の多い国道6号線及び土浦〜野田線との交差点では地下道を走り、土浦〜学園線との学園西交差点は立体橋を通るので、信号待ちがないのである。
万博中央駅~会場北ゲート間の略図を見ると、妻木赤塚線には4か所の立体交差があるが、上記の3か所は連節バスの通行のために造成された立体交差となっていた。
35年ぶりに現地を訪ね、JRひたち野うしく駅~学園西交差点を結ぶ妻木赤塚線(学園西大通り)を自家用車で走ってみた。
学園西大通りと土浦岩井線を繋いでいた立体橋は、当時は連節バスの専用道路として象徴的存在でもあったが、撤去されていて今はなかった。しかし、赤塚交差点下の地下道は当時のままの姿を留めていた。
これは片側2車線の中央寄りが連節バス専用レーンになっていたが、この中央寄りの上下2車線がそのまま地下道に通じており、連節バスレーンであったことを物語る唯一の証でもある。
今では関東鉄道の路線バスが同じ地下道を走っているが、この道が連節バスのために造られた道路であることを知る人は少ないであろう。
このように連節バスのルートは一部を除けば専用道路ではなく、一般車も通る道路であった。そのため全行程の道路に連節バス専用通行帯を設けることで連節バスの車列をピストン運行させるという大量輸送を可能にしていた。
スーパーシャトルは連節バスの車両のみならず道路にも数々の工夫がされていたのである。
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