1960年代後半から約50年、バスの写真を撮影してきた筆者の秘蔵コレクションから各時代へタイムトリップするこのコーナー。
それぞれの写真には今となっては見ることができない車両はもちろん、事業者やデザイン、まちの光景や社会の一端が記録されている。そしてそれは日本のバスが歩んできた歴史の一端でもある。そこから見えてくる日本のバス史を解説する。
(記事の内容は、2022年7月現在のものです)
文・写真/交通ジャーナリスト 鈴木文彦
※2022年7月発売《バスマガジンvol.114》『写真から紐解く日本のバスの歴史』より
■1961年まではバスに車掌が乗務することは運輸規則だった
日本のバスの歴史の中で、後世に残るターニングポイントのひとつとなったのは、路線バスのワンマン化である。
路線バスがほぼ全てワンマンバスとなったのは、大都市圏で1970年代半ば、地方でも1980年代に入るころにはほぼワンマンバスになった。それから40年以上の月日がたち、バスの車掌時代を記憶している人も少なくなった。バス事業者でさえ、車掌の時代を知らない社員がほとんどになっている。
ワンマン化より以前は、路線バスには必ず車掌が乗務していた。なぜなら、運輸省の自動車運送事業等運輸規則の中に、「バスは車掌を乗せなければならない」という一条項があったからだ。
車掌の多くは女性で「バスガール」と呼ばれ、紺の制服制帽に赤い腕章をし、車掌鞄を下げた姿は、1960年代初めまでの女の子のあこがれの職業でもあった。この条項が1961(昭和36)年に「条件が満たされれば車掌を乗せなくてもよい」というふうに変わって、ワンマン化が進むようになった。
ではなぜ急速にワンマン化が進められたのだろうか。ワンマン化が行われた理由について、合理化(人件費の削減)と一義的に思っている人が多い。しかし実は当初ワンマン化を考えた理由は車掌職の人手不足と深夜対応であった。
バスの車掌の主力は中学校を卒業して就職した女性であった。1960年代に入るころは高度経済成長期でバス需要は急増、増便などの輸送力増強と夜間への運行時間延長が求められた。
ところが、その高度経済成長によって女性の働く場が増えてきたこと、高学歴化が進み中卒女子自体が少なくなっていたことなどが理由で、女子車掌の採用が困難になっていた。
さらに当時は女性の労働時間に制限があり、深夜時間帯にかかるバスに女子車掌を乗務させるわけにはいかなかった。都市圏のバス事業者では、とりあえず男性車掌を増やしたり、運転士候補生や事務職などを車掌として乗務させたりしてしのいだが、本格的な輸送力増強にはワンマン化が必要となった。