沼尻軽便鉄道は、沼尻硫黄鉱山から採取した硫黄鉱石を当時の国鉄磐越西線まで輸送するために、1913年に日本硫黄耶麻軌道部として川桁~大原(後の沼尻)間で営業開始した。この沼尻軽便鉄道がモデルとなった懐かしすぎる曲を思い出しながら、路線バスで足跡を辿ってみる。
(記事の内容は、2023年9月現在のものです)
執筆・写真(特記以外)/諸井 泉
※2023年9月発売《バスマガジンvol.121》『あの頃のバスに会いに行く』より
■古関裕而作曲「高原列車は行く」のモデル
当初は鉱山鉄道として敷設された沼尻軽便鉄道だが、沼尻鉱山の最盛期には、鉱山集落には約2千人もの人々が暮らし、2つの病院や小学校も開設されており、旅客輸送も行っていた。硫黄鉱山の閉山後は気動車を導入するなど観光鉄道として脱皮を図り、磐梯山登山やスキー場へ行く観光客や学生たちでにぎわった。
沼尻軽便鉄道沿線地域には、会津乗合自動車の猪苗代~樋ノ口~沼尻駅前線が運行されていたが、耶麻軌道部(沼尻軽便鉄道の別称)でも沼尻駅発横向温泉経由鷲倉温泉行バスを運行するなど、温泉宿泊客の利便を図っていた。
1967年には社名を磐梯急行電鉄に名称変更しているが、電化された当時の国鉄磐越西線への乗り入れを想定したことによるようだ。
旧沼尻駅周辺には、沼尻駅前という地名が残っており、当時の駅舎も当時使われていた建築資材を使って再現されている。
また、途中の駅の跡地には猪苗代町によって立てられた「懐かしの沼尻軽便鉄道を訪ねて」という駅票を模した看板がある。また、猪苗代緑の村には当時運行されていたDC12機関車と客車2両が展示され往時を偲ぶことができる。
現在、旧沼尻軽便鉄道沿線地域では、磐梯東都バスが路線バスを運行しているが、磐梯東都バスは2003年4月に喜多方駅と裏磐梯高原を結ぶ路線を開設し、貸し切りバス事業とともに新規参入した。
その後、会津乗合自動車が猪苗代営業所を撤退すると、その路線を引き継ぎ運行していたが、コロナ渦による利用者数の低迷により、2023年9月末にバス事業を撤退することが決まり、再び会津乗合自動車が全路線を引き継ぐことが発表された。
磐梯東都バスの運行は約10年であったが、運行には最新の車両が投入されて路線が維持され、地域住民の重要な足になっていただけでなく、磐梯山登山やスキー、桧原湖や五色沼など、裏磐梯高原の観光の足として地域経済にも大きく貢献していただけに、大変惜しまれての撤退となった。
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