モータースポーツは走る広告ではなく走る実験室の役割も果たす。本田宗一郎のF1挑戦に始まり、ポルシェや三菱が貫いてきた、レースを通じた技術鍛錬と市販車開発の本質的なつながり。ホンダVTECやその陰にある知られざる開発哲学に迫ってみよう
文:中谷明彦/写真:Porsche AG、富士スピードウェイ、ベストカーweb編集部
【画像ギャラリー】モータースポーツ参戦がなければ誕生しなかった!? レースの技術を注入した市販車たち(12枚)画像ギャラリー極限で磨く技術、本田宗一郎がF1に託した未来
本田宗一郎氏が 1964年にF1に挑んだ動機は明快である。モータースポーツを「走る実験室」と捉え、実戦を通じて機械技術を検証、鍛錬し、それを市販車開発に活かすという思想に立脚していた。
単なる勝利至上主義ではなく、極限環境において技術者を鍛錬し、技術的課題をクリアする経験が未来の製品価値に直結すると考えていたのである。
実際、ホンダはF1で培った技術を市販車に着実に還元してきた。空冷のV型12気筒エンジンを搭載したF1マシンを走らせ、世界を仰天させたが、その技術はホンダ・77やクーペ9に採用されている。
「砂漠でオーバーヒートしたら水なんかどこにもないだろ」とすでに世界展開を見据えた難題を技術者に課せ、実現させてきた。PGM-F1のエンジン制御やVTECなど、レースの現場で磨き上げられた技術がホンダファンを魅了し続けてきたのである。
ポルシェが量産車に注ぐレースの知恵
この「走る実験室」という思想は、現在においてもなお、多くの自動車メーカーに共有されるべき理念である。実際、モータースポーツ活動を通じて得られた知見が、市販車の信頼性、性能、快適性の向上に寄与している事例は多くある。
その象徴として挙げられるのが、独・ポルシェのレース活動だ。ル・マン24時間レースで、自動車メーカーとして最多の19勝という偉業は果たしたことは、単なるモータースポーツとしての強さを示すにとどまらない。重要なのは、彼らが勝つために注ぎ込んだ技術が、後に市販車開発の礎となっている点にある。
2000年にポルシェ911カップカーによるスーパーカップシリーズのベルギー・スパ・フランコルシャン戦に挑戦した。レースの2週間前にポルシェの聖地である「バイザッハ」を訪れた。新車のカップ・カーのシェイクダウンを任され、レーシングスーツのフィッティングやシート合わせなどを行うためだ。
その時。バイザッハのコース脇にあるピットガレージにGT1カテゴリーのワークスマシンが臨戦体制で置かれているのを目撃した。その頃はポルシェ社としてル・マン参戦をしていないのだが、レース部門は毎年会社がゴーサインを出せばいつでも参戦できるようにマシンを開発し準備しているのという。
そうすることで人材もスキル、ノウハウも維持できる。日本のメーカーのように参加したり中止したりを繰り返すと。そのたびに技術もリソースもリセットされてしまい、復帰すればまたゼロから始めなければならない。それはあまりに効率が悪いのだ。
そもそもポルシェ社はル・マンへの参戦を単なるレース活動と考えていない。ル・マンで勝てるマシンを開発し続けることはスポーツカーメーカーであるポルシェ社にとっては量産モデルへの基礎技術のテストステージと捉えているのだ。
通常、販売台数の大きくないスポーツカーを開発するのに莫大なコストを捻出できない。ポルシェはモータースポーツ予算=開発コスト+宣伝費と考え、一体化することで効率のいい運用をしているのである。
ル・マンで培われたエンジンやミッション、ブレーキやサスペンションなどの技術は、ほとんどそのまま市販車である911に採用される。市販車と部品を共用することでスポーツカーとしては圧倒的な信頼性と価値を築くことができていたわけだ。
レースカーと市販のスポーツモデルの開発ラインを分断せず、相互にフィードバックが可能な体制を長年にわたり維持し、モータースポーツ開発費をそのまま市販車の研究開発費として位置づける合理的な取り組みだと言える。















コメント
コメントの使い方日本の車づくりの情報発信が少なくなったのは、ヨーロッパ主導の(言い換えれば常にヨーロッパ有利な)モータースポーツばかりになったから。
日本国内なら日本国内のモータースポーツを育てれば、車やモノづくりに興味のある若者を増やすこともできるだろうに。
そんな土壌ができないのも、自動車輸出国である国が後押ししないからなんだろうね。