歴史や社会に大きな影響を残した人物で、優れた業績や独自の考えで時代を切り開いた人のことを「偉人」というそうだ。それでも有名無名というのはあるわけで、歴史の流れに埋もれてしまって知られていない人物も多い。今回はそういった偉人を称えるイベントに行ってみたのでその様子をお届けする。
文/写真:東出真
編集:古川智規(バスマガジン編集部)
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■誰それ?「松浦武四郎」
今回訪れた三重県松阪市の偉人というと誰を思い浮かべるだろうか。有名なところでは江戸時代の儒学者・本居宣長、三井財閥の祖である三井高利、松坂城を築いた蒲生氏郷などが挙げられる。しかし彼らではない偉人をたたえる「武四郎まつり」というイベントにやってきた。
武四郎という名前を聞いてどれほどの認知があるだろうか。この人物は「松浦武四郎」といい、まつりが行われている松阪市小野江町(旧三雲町小野江)出身の偉人である。「武四郎まつり」はその功績を称えるとともに、アイヌの人々の伝統文化を紹介するイベントである。
松阪市が松浦武四郎の研究やアイヌ文化の啓発などで提携を結んでいる北海道・札幌大学の学生によるアイヌ古式舞踊や地元の小学生による劇、しょんがい踊りなどのステージイベントや松浦武四郎記念館の無料公開、飲食ブースが並ぶ季節の恒例イベントだ。
■何をした人?「松浦武四郎」
「武四郎まつり」は郷土の偉人である松浦武四郎を称えるということで、誕生月と生没月がどちらも2月ということから2月の最終日曜日に開催されており、今回で31回目を迎えた。生まれたのは文化15年(1818年)で江戸時代末期だ。この頃は文政のおかげ参り、伊勢神宮への参拝がブームとなる少し前の頃で、今でも残る誕生地前の伊勢街道は毎日多くの人が行き交う場所だった。
そんな環境で早くから旅への憧れがあった武四郎は16歳で初めて江戸まで、そして17歳からは約9年間家に戻ることもなく諸国を歩き回り知見を広める中で、その時代まだどういった場所かよく分かっていなかった蝦夷地(現在の北海道)を自分の目で見てみたいと思うようになり、蝦夷地の調査に向かうようになった。
28歳から41歳に渡り実に6回も蝦夷地で地理だけでなく、動植物や産物、そこに暮らすアイヌ民族の文化や暮らしの紹介など多岐にわたり詳細に調査を行った。その調査記録をまとめた書物はなんと151冊にもおよぶ。
蝦夷地においてこれだけの詳しい情報を知る武四郎は幕府側からも倒幕側からも極めて重要な人物として認識されていたという。武四郎と交友のあった人物としては、吉田松陰、藤田東湖、勝海舟、大久保利通など江戸時代から明治時代にかけて活躍した有名な人物の名前が出てくる。
蝦夷地の調査は1~3回目は個人として、そして4~6回目は江戸幕府から蝦夷御用御雇に任命され役人として調査を行った。蝦夷地での案内をしてもらったアイヌ民族からの交流や、聞き取りから名付けたアイヌ語地名は約9800を記録し、「東西蝦夷山川地理取調図」にまとめられている。更に「石狩国」など11の国名、「石狩郡」など84の群名を提案、そして「北加伊道」など6の道名を提案した。
これが現在の「北海道」となり、その名付け親と言われる所以である。「北加伊道」は蝦夷地の人々が自らの国を「加伊(カイ)」ということ、アイヌの古い言葉で「この地に生まれた人」という意味を持つということから、「北の大地に住む人の国」として「北加伊道(北海道)」を提案したそうだ。
会場となる松浦武四郎記念館では生い立ちから生涯までの年表、旅の達人としてだけでなく交流の達人、描写の達人、伝える達人や収集家など様々な経歴や資料が展示されている。展示ホールにある北海道の地図には調査された地名がぎっしり書かれているので、現在の地名に繋がるものもありぜひ見つけてもらいたい。
また入口には人生を旅に費やした松浦武四郎が「終の住処(ついのすみか)」として現在の東京都神田に建てた「一畳敷(いちじょうじき)」の実寸模型が設置されている。
これは松浦武四郎が全国の知人に頼んで集めた古材で建てた書斎で、中には出雲大社や厳島神社、吉野にある後醍醐天皇陵の鳥居、京都嵐山にある渡月橋の橋げた、法隆寺や伊勢神宮など、北は宮城県から南は宮崎県までいろいろなところから贈られてきた古材もあるという。
広さは本当に畳一畳で松浦武四郎は書斎を今までの旅の人生を思い出す場所とし、夏は一畳の部屋いっぱいに蚊帳を吊って寝起きをしていたそうだ。ちなみに実物は国際基督教大学構内の泰山荘(東京都)に現存しているが、もちろん自由に入れる場所ではない。当地のの実寸模型は部屋に入ることもできるので、その広さというか狭さを体感することが可能だ。




