「ヤマハ」といえば、オートバイや、楽器の分野での活躍のほうが世に知られているが、クルマ分野においてヤマハといえば、トヨタのエンジンサプライヤーとして50年以上の歴史を持つメーカーだ。トヨタの「名機」と呼ばれるエンジンには、必ずといってよいほど、ヤマハが関与している。
この2社が協業するきっかけとなったのは、1965年に東京モーターショーに登場した、「トヨタ2000GT」の開発であった。なぜトヨタはヤマハをパートナーに選んだのか、ヤマハならではの強みとは何だったのか、考察してみようと思う。
文/吉川賢一、写真/TOYOTA
参考文献/ヤマハHP「トヨタ2000GT」の試作から生産へ(リンク先)
■ヤマハの技術力とその熱心さに惚れたトヨタ
2000年に業務提携を強化したトヨタとヤマハ。だが、それ以前から、スポーツカー開発に関し、技術提携をしていた。
2社が始めて技術提携の契約を交したのは1965年9月のことだ。だがその前の年の12月には、すでに「トヨタ2000GT」の協業プロジェクトは動いていたという。
「世界に通用するトップレベルのスポーツカーをつくる」「GTレースで勝てるポテンシャルをもつ」といった高い目標が掲げられていた2000GTだが、全体の構想が出来上がった段階で、肝心のエンジン開発を任せるメーカーが決まっていなかった。そこで挙がったのがヤマハだった。
ご存じの通り、「ヤマハ」は、元々は楽器メーカーだ。しかし、1950年代からオートバイの開発を、そして1960年代にはスポーツカーの研究開発に取り掛かっていた。
なかでも、高回転型エンジンの「肝」であるDOHC化技術を積み重ねていった。最初の試作車「YX30」(1959年)では、最高速144km/hをマーク、その後、日産からの技術委託で2リッターのDOHCエンジンを搭載した試作車「A550X」(1964年)も開発している。
ヤマハの技術力とその熱心さを知ったトヨタは、「トヨタ2000GT」の全体レイアウト計画やデザイン、基本設計などをトヨタ側で済ませたあと、ヤマハ側へ、エンジンの高性能化(トヨペットクラウンの2.0リッター直6エンジンをDOHC化する)と、車体およびシャシーの細部の設計を割り振った。
それが1964年12月のことだ。エンジンのDOHC化については自信があったヤマハ社員達とはいえ、4輪車製造の知識経験はほぼない状況、当初から試行錯誤の開発だったという。
タイムリミットは1965年10月の東京モーターショー。そこに間に合わせるため、必死に開発に取り組んだそうだ。
功を奏したのが、楽器やボート製造で培った、型の製作技術であった。ボンネットやトランクリッドには、手づくりのFRP成形技術、ルーフやフェンダー、ドアなどは「匠の技」による板金叩き出しも駆使した。
木製のステアリングホイールやシフトノブ、インパネなども、夏場に高温となる車内でも変形や割れが生じないように配慮できたのは、木材をよく知るヤマハならではだった。
知識や経験不足は努力でカバーし、持ち前の勤勉さで、課題が起きればすぐさまチームで対策を考える。その結果、わずか10カ月で試作車の完成まで持っていた。そうして発表された「2000GT」が、国内外のファンから大称賛を浴びたのはご存じの通り。市販車への開発へ向けて、大きく弾みを付けた。
当時、2000GT開発に携わったヤマハの開発者の平均年齢は30代前半だったという。クルマづくりに関して、いわば素人であったヤマハだが、若く熱意ある社員たちが集中して開発に取り組むことができる風土と土壌があったからこそ、実現できたのだろう。
ものづくりの技術力もさることながら、若きエンジニアの熱意とそれをよしとする企業風土、トヨタはヤマハのそんなところに魅力を感じた、ということなのかもしれない。
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