ホンダ(本田技研工業)が生まれたのは今から75年前の1948年。終戦からまもない時期に設立されたというのにも驚くが、そこから歩んだ道程を知ると、我々はさらに驚愕することになる。不屈の魂で挑戦を続けてきたホンダの軌跡を辿る。
※本稿は2023年6月のものです
文/片岡英明、写真/ベストカー編集部、ホンダ
初出:『ベストカー』2023年7月26日号
■ホンダの原点は自転車補助エンジン
ご存知のようにHONDA(本田技研工業)を生み出したのは、子供の時から機械オタクだった本田宗一郎だ。
いつか自動車を造ってみたいと夢見るようになり、その足がかりとして自転車にエンジンを取り付けて売り出したのが1947年。これがヒットしたので、1948年9月24日に本田技研工業株式会社を設立している。
ホンダドリームやカブなどの2輪車の名作を数多く生み、これらは爆発的に売れた。
2輪車の世界で世界一のメーカーにのし上がり、1950年代終盤には世界グランプリと伝統のマン島TTレースをも席捲。そして1960年代になると、念願だった4輪車の分野へと進出してきた。
■独創的で新進気鋭の技術こそがホンダらしさ
特振法案と呼ばれる法案が成立すると新興メーカーの新規参入は難しくなるから、ホンダは慌てて4輪業界への進出を表明する。最初の作品は1962年6月に建設途上にあった鈴鹿サーキットでホンダ販売店の経営者と関係者にお披露目されたS360と軽商用トラックのT360だ。
1963年8月、ホンダはT360を発売する。軽商用トラックでありながら搭載するのは日本初のDOHC、しかも4気筒エンジンだった。当時の軽自動車の主役は2サイクル2気筒だ。ぜいたくな4サイクルもあったが、OHV方式である。上のクラスを見てもDOHCエンジンはない。
10月にはS500を市場に送り出した。ホンダ初の乗用車は、驚いたことにDOHCエンジンを積む高性能な2人乗りのオープンカーだ。これはS600とS800に発展している。
同じ時期、ホンダは日本の自動車メーカーとして初めてF1戦線にも名乗りを挙げた。最初のF1マシンは1.5Lで、なんと横置きのV型12気筒DOHCだ。実にユニークなのがホンダの技術なのだ。
本田宗一郎が社長だった時のホンダは破天荒である。走る実験室と称してF1に参戦し、空冷V型8気筒という常識破りのマシンも製作した。また、時代の先端を行くFF2ボックスの軽乗用車、N360も発売する。群を抜く高性能だったし、コスパも高かったから爆発的に売れた。
本田宗一郎は空冷エンジンに独創的なサスペンションを組み合わせたホンダ1300の開発も指揮している。商品としては失敗に終わったが、この苦い経験はのちのシビックやアコードに生かされた。
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