強豪たちを相手に肩を並べる存在感
もちろん、FTOだけが特別だったわけではない。どのチームもそれぞれのマシンに工夫を凝らし、レースを面白くしていた。だが「FFでGTを走る」という挑戦は大きな意味を持っていた。GTというカテゴリーにおいて、駆動方式の違いがここまでレースを彩った時代は他にないだろう。
それでもトーヨータイヤは初のGT挑戦に必死に開発に取り組んだ。テストでは、彼らの技術陣と共にサーキットへ何度も足を運び、データを突き合わせた。ウエットタイヤのグリップ不足も深刻な課題だったが、改善を重ねる中で確かな手応えを感じ始めていた。
そして迎えた1999年、鈴鹿ラウンドの雨のレース。FTOはマシントラブルで最後尾近くからのスタートとなったが、雨中を猛然と追い上げ、ついに2位フィニッシュを果たした。開発陣の努力が結実した瞬間だった。
振り返れば、1998年から1999年の2シーズンで、FTOは5回も表彰台に上がることができた。優勝こそ叶わなかったが、3位2回、2位3回というリザルトは初参戦車両としては十分以上の成果だったといえるだろう。データゼロからの挑戦であったことを考えれば、むしろ誇れる結果だったと思う。
後世に語り継がれる価値のある2年間
もちろん、FTOのプロジェクトは決して順風満帆ではなかった。スポンサーを確保するために動いたのも、マネジメントをラリーアートと調整したのも、自分自身だった。(株)テイボンが支援を買って出てくれたのは大きな力となった。レーシングカーを走らせるには、ドライバーの技量やマシンの速さだけでなく、開発、資金、体制といった要素が複雑に絡み合う。
レースの世界は厳しい。勝つためには、マシン、タイヤ、チームワークのすべてが噛み合わなければならない。FTOでの挑戦は、FFで初挑戦というハンディを抱えつつも、技術と情熱で限界を切り拓こうとする戦いだった。
いま改めて当時を振り返ると、FTOは単なる参戦車両ではなく、「挑戦の象徴」だったと思う。大手メーカーの全面バックアップではなく、自身の提案と人脈で立ち上げたプロジェクトとも言える。未知の領域に踏み出す勇気を与えてくれたのが、あのクーペボディの小さな三菱スポーツカーだった。
優勝は果たせなかった。しかし、FTOプロジェクトが示したことは「結果だけがすべてではない」ということだ。勝利に届かなくても、挑戦のプロセス自体が価値を持つ。レースという舞台で、技術者、スポンサー、チームメンバーそしてドライバーが一丸となり、未知の壁に挑んだ経験こそが、関わった全ての人の財産となったことだろう。
2000年で生産販売が中止されることが決定したFTOは、わずか2年でGTでの活動を終えた。だがGT仕様FTOの存在は伝説となり、今も多くのファンが存在する英国FTOファンクラブでは、幻のFTOとして崇められている。


コメント
コメントの使い方間違いなく当時最高のFFスポーツだったFTO。レースでの活躍も説得力を増します。
そのあとすぐに、後追いでホンダがシビックを徹底開発し、FFでの速さを示して大規模アピールしたので
急に日陰者になってしまいましたが、FTOが素晴らしいハンドリングを持っていた事実は消えません