求められる「運転」以上の技術
現代のF1マシンのドライビングは、もはや単なる「運転」ではない。ステアリングには十数個のスイッチやロータリーダイヤルが並び、ブレーキ・バランス、デフ設定、ERS(エネルギー回生システム)、MGU-H/MGU-K制御、燃料マップの変更など、常時エネルギーマネージメントが要求される。
周回ごとに最適化すべきパラメータが存在し、ドライバーは走行中に膨大な情報を処理する。これは人間と機械の共進化的関係であり、ドライビングが「システム制御」をも必然としていることを意味する。仮にこのような車両を実際に操る機会があれば、要求される能力は単なる身体的反射だけではなく、情報統合力・認知処理速度・エネルギー管理能力といった知的要素が中心となるだろう。
この視点で見れば、F1マシンは世界最速カテゴリーとして、技術の総合実験場であり、レーシングカーという機械の頂上であり続けている。
F1シミュレータを操作しても、あの複雑なインターフェースを完全に理解し、再現性を持って制御することは極めて困難だ。走行中にモード変更を行いながら、エネルギー回生量と放出量を最適化し、タイヤ温度と燃料搭載量のバランスを維持する。
ドライバーはまさに制御の中核といえる存在
この全体制御を「感覚」として体得するには、もはや従来のドライビング訓練では到達し得ない領域にあるだろう。興味深いのは、こうした複雑化が必ずしも「人間の介入を排除する方向」としては進化していない点である。
むしろF1の世界では、ドライバーの判断力とデータ処理能力が車両性能の一部として統合されている。言い換えれば、ドライバー自身が制御システムの中核的なコンポーネントとなっているのだ。レギュレーションでそれを厳しく定めることでドライバー不在の完全自動運転マシンとなってしまうことを防いでいるとも言える。
F1はマシン性能と車体構造の自由度が高く、放っておけば人間には耐え難いGの発生も可能にしてしまうだろう。
現代におけるF1マシンは空力と耐久性、燃費効率、タイヤ戦略が主眼となり、それらすべてを瞬時に統合的に制御することが要求される。そこには現代も究極の「操縦対象」としての魅力と価値がある。
仮に今、一度だけ好きなレーシングカーを操る機会が与えられるとすれば、それは現役時代に果たせなかった「人が中心的に操る」時代のF1マシンか現代のF1マシンしかない。
操ってみたいのはやっぱりF1
F1マシンは常に物理法則の限界を突き詰めながら、同時に人間の思考速度と判断力の限界をも試す存在である。そこでは「速さ」は単なる結果ではなく「ドライバーとマシンの最適化」の副産物となっているのだ。
人間が機械と対話し、その出力を知的にマネージするプロセスこそが、モータースポーツの進化を常に象徴している。 過去のレーシングカーが肉体の極限を試す存在だったのに対し、現代のF1は知性の極限も問う機械である。
パドルシフトはその象徴であり、人間の限界を拡張するためのデバイスだ。クラッチペダルとシフトレバーに宿っていた職人的技巧は、いまやアルゴリズムと統合制御に置き換えられた。しかしその本質は変わらない。
どれほど技術が進化しても、最終的に「速く走る」ために必要なのは、機械と人間の完全な同期だ。だがGに耐える限界値は年齢とともに低下している。だから今 ではF1マシンを乗りこなせるとは微塵も思っていない。激しいGのかかる世界は苦痛以外の何者でもないことを知っている。
ただ、レース界の頂点に位置するマシンとして、F1マシンを一度は思い切り走らせてみたいと、今でも想っている。
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