■戦前から戦後にかけ路線は雷門から九十九里まで伸延した
1934年3月、自動車事業拡充のため京成乗合事業者を統合し、自動車課を設けるとともに千葉営業所を開設した。保有台数も57両となった。
毎年著しい好業績をあげる自動車事業は5年目で累積利用者数400万人にもなり、1936年11月には東金自動車も買収、関係会社の成田鉄道(現千葉交通)の自動車路線を加えると浅草を起点に千葉北部のほとんどの路線網を網羅することとなった。
1937年には習志野乗合自動車を買収して京成津田沼駅前に習志野営業所を開設、寺島営業所を奥戸営業所に改称、奥戸~市川間の路線が開通し東京と千葉が完全に連絡し、バス路線は雷門から九十九里までつながることとなった。
1938年になると戦時色も色濃くなり、ガソリン消費規制が行われ、自動車事業は運転間隔、配車などを調整して対応、薪や石炭、木炭などを燃料にした代用燃料車への改造も進めた。
また、研究を進めていた天然ガス使用車両も試験的に運行され、全国初の天然ガス車として注目された。
戦後になると自動車業は当初は代燃車に頼っていたが、進駐軍からトラック20台が払い下げられ、改造・配備して、休止路線の一部を復活、その後も次々と路線を復活させ、ディーゼル車やトレーラーなどを発注、車両の大幅な増備を行い戦後復興に向けてのあゆみを始めることとなった。
押上駅から歩いて四つ目通りに出て押上駅前交差点へと向かうと途中に橋がかけられている。北十間川にかかるこの橋の名は「京成橋」と呼ばれている。
1912年10月、京成電鉄の本社を有楽町から押上に移転した際、橋の拡張工事が行われた際に「京成橋」と命名されている。この京成橋の上を今、100年の時を超えて京成バスが走っていくのを見るととても感慨深い。
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