1977年末から1978年初頭にかけて、都電荒川線が旧来の車掌乗務の「ツーマン運行」から、運転士だけの「ワンマン運転」に切り替わるための移行期間だった。
現在も都内に唯一残る都電路線「荒川線」。その大きな転換点を記録しようと、当時中学2年生だったベストカー編集委員梅木は、荒川線の走る都内の風景を写真に収めていた。
46年前の写真を改めて見ると、当時の都内の風景とともに、街を行く、当時のクルマたちの姿が写っていた。当時の都内は、どんな風景だったのか?
写真:文/梅木智晴(ベストカー編集委員)
スカイラインがケンメリからジャパンにモデルチェンジ。日本車にターボ車はまだなかった時代
1977年といえば、スカイラインが4代目C110型、いわゆる「ケンメリ」から5代目C210型「ジャパン」にモデルチェンジした年だ。クラウンは5代目S80系の時代で、セドリックは4代目330型だった。日本車に市販ターボ車はまだなく、サバンナはRX-7デビュー前夜で、「RX-3」が現役だった。
うーん、やっぱり大昔だなぁ~と思いつつも、中2の自分を振り返ると、「そんなに昔じゃあないじゃん!?」なんて感じたりもする。いや、間違いなく大昔なんだけど。
テレビじゃあドリフが全盛期で漫才ブームはまだ来ていない。一番最初の金八先生が始まるのはこの翌年度、私が中学3年生になった年だ。
都電荒川線は荒川区の三ノ輪橋を起点に、千代田線や京成線の通る町屋駅を経て、JR王子駅を経由して明治通りの上を飛鳥山公園を左手に見つつ走り、さらに南西に進路をとりながら北区~豊島区を抜けて、山手線大塚駅を経由して新宿区の早稲田に至る路線。早稲田電停手前の面影橋、学習院下、鬼子母神、雑司ヶ谷のあたりなどはベストカー編集部のある音羽界隈からのわりと近く、なじみ深い存在なのだ。
そして下の写真が現在の同地点だ。
コメント
コメントの使い方生粋のレトロ感覚要素風土満載は70年代もしくは80年代初頭まで(新日本紀行の放送年代)