トヨタディーラーは、全国に約5,000店舗ある。このうち、車両製造元であるトヨタ自動車が直接経営するのはトヨタモビリティ東京だけであり、他は全国各地の地元企業(地場資本)である。製造と販売を完全に分けた結果、販売のトヨタが生まれた。今回は、トヨタが築いた自動車販売の歴史を紐解いていこう。
文/佐々木 亘、写真:TOYOTA
■「販売のトヨタ」の礎を作った元GMの副支配人
時は1935年。自動車事業が許可制となり、トヨタ自動車の創業者である豊田喜一郎(当時は豊田自動織機製作所の常務取締役)が、G1型トラックの試作品を完成させたころの話だ。
自動車製造事業法の許可会社に指定されるため、量産化を急ぐ喜一郎だったが、作ることばかりを考え、売るところまで手が回っていなかった。
喜一郎は「自動車は、作るより売るのがむずかしい」と口癖のように語っていたという。
そんなトヨタの販売を任されることになったのが、当時日本GMの副支配人をしていた神谷正太郎だ。
37歳でトヨタの販売の全権を任された神谷は、GMの特約店であった日の出モータース(現在の愛知トヨタ自動車)に声をかけ、G1型トラックの販売を求める。
これがトヨタの自動車販売における、大きな一歩目だ。
以降は戦時下に入り、自動車は軍の統制下に置かれた。一時的に神谷は自動車販売の最前線から離れることとなるが、戦争が終わると、再び神谷の行動が始まる。
戦時中に交流していた全国の配給会社に声をかけ、トヨタの販売網に加わるように説得を行う。
配給会社の解散と同時期の1946年、トヨタ自動車販売店組合が結成された。これが、現在もトヨタが世界に誇る、販売力を築く礎となる。
神谷が豊田自動織機製作所に入社した際、販売理念として掲げた言葉が次のものだ。
「1にユーザー、2にディーラー、3にメーカーの利益を考えよ」
製造元は自社の利益を優先しがちだが、製品を使う人が最優先で、次に優先すべきなのはユーザーと直接的にかかわるディーラーとしているところが神谷らしい。
この考えがあったからこそ、メーカーであるトヨタ自動車と、全国各地のトヨタディーラーは、対等な立場でモノを言い合い、互いにトヨタを良くするために動き続けたのだ。
■地場資本・販売のトヨタを作り上げたのも神谷正太郎
現在、日本国内には200社以上のトヨタ販社がある。全国各地にユーザーが不便することのない店舗網を作り上げられたのも、神谷の力と言えるだろう。
戦後、神谷は全国各地に存在した「地元の名士」に声をかける。彼らは地元に根付き、地元で自動車ディーラーを営んでいた者も多かった。彼らは、神谷の一声でトヨタの看板を掲げ始める。
当時のディーラーは、現在のような販売中心の業態ではなく、どちらかというと自動車修理工場に近いものだった。
そこで神谷は、上下ツナギ姿のディーラー社員にスーツを着せて、販売のイロハを伝えた。急ごしらえではあるが、セールスマンを作り上げたのだ。
神谷は、各地のトヨタディーラーへ、自分の販売ノウハウを伝えて回った。日本GMで若くして副支配人にまで駆け上がった神谷の腕は確かなもので、整備工場が瞬く間にディーラーになったという。
さらに販売を促進させるため、車両の定価販売や割賦(ローン)販売を取り入れたのも、神谷なのである。
のちにトヨタは製造会社と販売会社を合併することとなるが、全国の地場資本が経営するトヨタディーラーは各地に残している。
合併によりトヨタ自動車が直接経営するディーラーも出現するが、数としては少数にとどまった。
トヨタの自動車販売の中心は、戦後間もなくから現在まで、メーカー直営ではなく地場資本にあり続けるのだ。
各地域に軸足を置いた地場資本のトヨタ販売店だからこそ、地元密着の売り方をするし、自律して販売店を経営した。
トヨタという看板にあぐらを掻くことなく、それぞれが一つの自動車販売会社として大きくなることを目指したからこそ、販売に強いトヨタが誕生している。
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