トヨタの販売店って少し前まで、トヨペットとか、カローラトヨタとか、いろいろあって訳がわからない……なんて人が多かったと思います。しかし、そこには戦後間もないトヨタが考えた、日本の自動車の歴史で類を見ない大胆な戦略があったのです。
文/佐々木 亘、写真:TOYOTA
■複数販売店構想が生み出した過酷な競争
1950年代に入ると、乗用車の販売台数が急増する。1950年にはわずか548台だった乗用車の販売実績が、1955年には7,055台と13倍近くの伸びを示しているのだ。
市場の急拡大を背景に、各都道府県に1つが原則だったトヨタ販売店を、各地に複数置くべきではないかという、複数販売店構想が生まれる。
この声は日増しに強くなり、1956年には、7県でトヨペット店が営業を開始する。
元々あったトヨタの販売店を「トヨタ店」とし、トヨタ・トヨペットの2チャネル制での販売がスタートした。
その後もモータリゼーションの波を受けて、販売店は増えていく。1961年にはパブリカ店(現在のカローラ店)、1967年にはトヨタオート店、さらに1980年にはトヨタビスタ店が営業を開始した。(オート店とビスタ店はのちに統合し、現在のネッツ店となる。)
各販売チャネルは、各地の新しい資本が販売会社を設立し運営されていくことになる。
中には、その地域外の会社が運営元を担うケースもあり、トヨタ自動車が直営する店舗も複数登場してきた。
新設店が設置されるのと同時に、商品の販売権移管も進み、古くからトヨタ販売店を経営してきた地場の会社は、既得権を奪われていったのだ。
こうした動きは、トヨタが自動車の量販(大量販売)には、米国式のディーラーシステム(多数の小規模店舗を自由に競争させる形式)が有効であると考えた結果である。
しかしこの動きは時期尚早であった。
1960年代半ばまで、全国各地の地場資本からなるトヨタ販社は、厳しい販売競争にさらされた。
販売店経営は、かなり厳しいところまで追いつめられるが、この後すぐにトヨタは小規模販売店の乱立を抑えた。
そして基本的に各チャネルを各都道府県に1つ置くという、中・大規模販売店方式へと販売店運営の方針を変えていく。
過酷な競争を耐え抜き、トヨタディーラーは、この後さらに大きく成長することとなるのだ。
■地場資本だからできた!足りないセールスマンの人材確保術
1970年代後半になると、国内販売体制の強化が始まる。具体的にはセールスマンの増強だ。
1977年央までにセールスマンの数を3万人に、翌1978年にはさらに2000人を増強することと、新車販売拠点を合計3,000カ所とすることが計画される。
人材確保を中心にした販売力増強計画に対して、トヨタ自動車は全国の販売店へ資金援助を行った。この資金は販売拠点の増強に大きく寄与している。
加えて、人材確保には多くのトヨタ販売店が各地の地場資本で経営されているという強みが、いかんなく発揮された。
地場資本のトヨタ販売店は、地元の企業や学校との結びつきが非常に強い。
地元新聞社の広告網を活用した求人の呼びかけや、地元の大学に働きかけて懇親会を催すなど、地元企業だからできる効果的なアピールを、地元の新卒者を中心とした求人層へ続けたのだ。
結果として販売力増強計画は、ほぼ成功と言えるレベルで達成された。トヨタ販売店が、メーカー直営ではなく地場資本だからこそ、人員確保がスムーズに進んだのである。
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