日本の鉄道150周年 最初の一歩はここから始まった 高輪ゲートウエイ駅は海の上だった

難工事の海上築堤建設には大隈重信が大きく関わる

 前述のとおり、鉄道敷設は明治政府の決定、つまり国策。にもかかわらず、兵部省側は国防上の理由から高輪地域の土地供出を拒否した。早期の鉄道敷設を目指した明治政府は、この区間を海上築堤として線路を敷設する決断を下したのだという。この決断には、鉄道敷設に積極的だった大隈重信の力が大きく働いたという。築堤は石積みで、これには築城時の石垣建設、台場建設の技術が大きく生かされた。難工事であったことは想像に難くないが、鉄道建設決定からわずか3年後には完成させて、開業にこぎつけたのだから、いかに多くの労働力が投入されたことであろうか?

1872年の鉄道開業当時の高輪地区の地図。現在の浜松町駅の先から海上の築堤上に線路が敷設されたことがわかる。現在の高輪ゲートウエイ駅も品川駅も当時は海だったことがわかる。「港区立郷土歴史館所蔵」
1872年の鉄道開業当時の高輪地区の地図。現在の浜松町駅の先から海上の築堤上に線路が敷設されたことがわかる。現在の高輪ゲートウエイ駅も品川駅も当時は海だったことがわかる。「港区立郷土歴史館所蔵」

日本の鉄道史を今に伝える高輪築堤、再開発工事現場で目撃可能か!?

 この『高輪築堤』の遺構は高輪ゲートウエイ駅近くの再開発工事現場で見ることができる。

 高さ150㎝という低いトンネルで、タクシーの行灯が当たってしまうと有名だった「高輪架道橋下」。もともとは『高輪築堤』の切れ目で、陸側の運河から船が出入りするための用水路であった。埋め立てが進んで周囲が陸地になったのちはそのまま線路をくぐる道路になったのだ。再開発工事が本格化した2020年4月12日以降、車道が閉鎖されて歩行者のみが通行できるのだが、国道15号線側からのアプローチ路がちょうど再開発工事エリアを通るため、柵の隙間から高輪築堤の遺構を見ることができるのだ。

泉岳寺駅近く、高輪架道橋へのアプローチ路入り口付近に示されていた再開発工事の位置関係を示した看板。いわゆる「ヘディングアップ」で描かれており、地図上方が海側(東)となる。「現在地」と示された場所から2街区脇を1街区方面にUターンするようにつけられた道がアプローチ路だ
泉岳寺駅近く、高輪架道橋へのアプローチ路入り口付近に示されていた再開発工事の位置関係を示した看板。いわゆる「ヘディングアップ」で描かれており、地図上方が海側(東)となる。「現在地」と示された場所から2街区脇を1街区方面にUターンするようにつけられた道がアプローチ路だ

 本年4月14日に現地を視察した際には石積みの築堤遺構を見ることができたのだが、6月10日、さらに6月20日に再訪すると、工事が進行して築堤の石垣は確認できなかった。しかし、さらに工事が進めば別の地点を掘り返すことで、また築堤遺構が顔を出すこともあろう。

高輪架道橋下トンネルへのアプローチ路から望むことができる山手線線路。コンクリートの高架橋には京浜東北線が走る。その奥側には新たに整備された車両基地が見える。旧東京機関区があったあたりである
高輪架道橋下トンネルへのアプローチ路から望むことができる山手線線路。コンクリートの高架橋には京浜東北線が走る。その奥側には新たに整備された車両基地が見える。旧東京機関区があったあたりである

 旧新橋停車場(汐留)から高輪築堤まで歩いても3~4km程度。都心だし途中にはしゃれたカフェだってあるので、ぶらぶら散歩しながら鉄道150年の歴史に思いをはせてみるのも一興だ。

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