もはや「セダンの復権」という言葉自体が凋落してしまった感のある日本のセダン事情。自動車評論家 鈴木直也氏による2013年「日本のセダンに足りないもの」についてのコラムを発掘。あの頃と今とで、問題の本質は変わっているのか、いないのか?(本稿は「ベストカー」2013年3月26日号に掲載した記事の再録版となります)
TEXT/鈴木直也(編集部まとめ)
■セダン不振の原因はどこにある? 世界のセダンと比べてなにが足りない?
もはや日本のみならず、世界のセダンは、プレミアムブランドしか生き残れない時代になった。つまりブランド力があるかどうかということになるのだが、いまさらそれを言ったら元も子もないんだけどね。
例えばBMWは1970年代からメルセデスベンツと肩を並べたいために7シリーズを投入したものの、プレミアムセグメントで市場に認知されるまで20年以上かかった。アウディも然り。
VWもフェートンを投入したものの成功しているとはいえない。
それを考えると日本のインフィニティ、レクサスは健闘しているのだが、世界を相手にすると、セダンとしての出来は今一歩。もっと日本のセダンに頑張ってほしいという意味を込めて、苦言をいいたい。
例えばレクサス。なにか根本的にプレミアムセダンというものを勘違いしているんじゃないだろうか。
スポーティなハンドリング、スポーティな足回りがすべてじゃない。プレミアムセダンというものはハンドリング、乗り心地を含めた走りのクオリティが高くなければ厳しい。
わかりやすくいえば、どこまでも走りたくなるクルマじゃないかと思う。
ボクのセダンの理想像は、乗り心地がよく、足回りがしなやかで安心して走れ、時としてスポーツ走行とはいわないまでも走りの楽しさを味わえるクルマだ。
これにアジリティが加わるわけだが、こうした特性はバイワイヤによって変えることもできる。すべてを両立させるところまでいってはいないものの、満足できるレベルにまで進化している。
ここで日本車に足りないものをひとつ挙げたいのは「走りのクオリティ」だ。このあたりはまだまだ欧州車に追いついていない。
世界を相手にした初のセダン、初代セルシオから見ているけれど参りましたっていう日本車のセダンに出合っていないのは悲しいことです。豊田章男社長はこのあたりを、「足りない」と思い、BMWとの技術提携に踏み切ったように思う。
2つ目は一貫性があること。日本車のセダンはモデルチェンジをするたび、開発責任者が交代するたびに急にクルマの方向性が変わってしまうことが多い。レクサスはスピンドルグリルを今後20年は続けていってほしいものです。
ここで、「日本車がつまらなくなったのはこれだ」と思った事例を紹介しよう。
BRZの増田主査がBRZに採用しようとホイールをトヨタに持ち込んだら、トヨタの耐久基準に合わないといわれたという。その社内基準はランクルと同じだったというのを聞いて驚いた。
その事例から察するに、全般的に日本車メーカーの社内基準はがんじがらめになっていることが想像できる。おそらくシャシー設計に関しても縛りが厳しいんじゃないだろうか。
これはセダンにも当てはまると思う。
社内基準を今一度見直したほうがいいんじゃないか。昔のセダンはよかったじゃない。メーカーそれぞれに個性があって、他メーカーに乗り換えると、その違いがわかりやすかった。
そう、3つ目は独自の個性に基づいた技術をセダンに投入しているか、ということ。それは成功したセダンは必ず、それをもっている。しかしその技術=飛び道具だけじゃ成功しないのは、ホンダのセダンが物語っている。
日本のスポーツカーもそうだけど、売れないから作らない、お金をかけないから売れなくなるという悪循環をいったん断ち切って、今こそ、軽メーカーを除く日本の自動車メーカーが「これがうちのセダンだ」と太鼓判を押せるセダンを作ってほしい。
熾烈な競争あってこそ、いいものが生まれるのだから。セダンの復権待ち望んでいます!
(内容はすべてベストカー本誌掲載時のものです)
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