ただ、ひたすらに一番速く……。その1点を極めることに人々は情熱を注ぎ、団結し、ぶつかり合う。
今も昔も変わらないモータースポーツの真髄だ。しかし、常に最先端の技術を競うモータースポーツでは、時代を経て大きく変わりゆくものも多い。
今回は1990年までベネトンでメカニックを務めた日本人F1メカニックの第一人者、津川哲夫氏が、現場の人間にしか知り得ないF1メカニックの今と昔を語る。
文:津川哲夫/写真:ベストカー編集部、Williams
ベストカー2016年2月26日号
現代F1のメカニックは仕事の大部分をコンピュータ相手に行う
最近のF1グランプリはレース数が異常に増え、2016年は年間21戦ものレースがカレンダーに掲載されている。このレース数を3月から11月の間で消化しようというのだから、レースチームのスタッフ達はたまったものではない。
1年間の3分の1以上も家を留守にして外国で仕事をしているのだ。特にメカニックとなるとレース現場で働くだけでなくファクトリーに戻っても、レースカレンダーが詰まっているので、レースとレースの間には僅かな時間しかなく、この短時間で膨大な量の仕事をこなさなければならない。
近年F1マシンは大きく様変わりし、エアロダイナミクス(空力性能)を徹底追求した複雑なボディワークの下には、もはやエンジンとはいわず、パワーユニット(PU)と称する複雑怪奇なハイブリッド・システムが搭載されている。
そして、ハイテク電子制御がマシンの中枢を掌握し、レース現場での仕事の多くはコンピュータのキーボード相手に行なっているのが現実だ。
もちろん、こんな現代的な仕事形態は僕らの時代、まだ20世紀の終盤だったころとは大きく違うのである。
仕事ぶりの変化はメカニックの“精神”にも影響を与えた
僕らの時代(1970~1990年代)、まだF1チームはどのチームも小さく、当時で最も大きなチーム(例えばフェラーリなど)でも、現在の中堅以下のスケールしかなかった。
チームで働くスタッフの数は最大でも400人に到達するチームがほんの2~3チーム。多くのチームは200人超えがやっとで、最小では僅か数十人でチームが賄われていたのだ。
現在は最小チームでも250人超え、最大1000人を超える。それでもレースを走るのはたった2台のマシンだから、メカニックの仕事が如何に様変わりしたか想像がつくと思う。
僕らの時代、一台のクルマを担当するメカニックは3人が普通で、チームに多少余裕があれば、ギアボックスのメカニックが付いたりしたものだ。
したがってメカニックはクルマ全体、エンジンや車体、時には板金作業やコンポジットワークなど、何でもこなしたものである。組み付けパーツの多くはレース毎に、また問題があれば、レースウィークの間にメカニックの手でバラされて、チェックされ、清掃され、パーツを入れ替えて再度組み上げられ、それがマシンに搭載されたものだ。
しかし、現在ではこれらの組み付けパーツのほとんどは、ファクトリーのサブアッセンブリー部門で組み立てられており、現場のメカニックはこのパーツ一式を交換するだけが仕事になっているのだ。
現在のF1マシンを構成するパーツの量は半端ないほど多く、メカニックがいちいちバラして組み付けているような時間はまったくないので、こうした作業形態へと変わってきたのだ。
そして、各部品それぞれが先進技術で覆われた複雑な部品であり、もはや専門的なノウハウがなければそう簡単にいじることはできず、担当するメカニックはそれぞれの部分に特化された専門家になってきているのだ。
これは当然で、万を優に超える膨大な量の部品を通常のメカニック数人で、決められた時間内で扱えるわけがないのだから。これはF1だけでなくあらゆる産業にいえることで、近代科学は洗練され特化した分業がないかぎり成立しなくなってきた。
これこそが僕らの時代と現在のF1環境の大きな違いを産み出している。そして、これは環境だけでなくメカニック精神そのものにも大きな影響を与えているのだ。〈続く〉
後編はこちらです。
津川哲夫
1949年生まれ、東京都出身。1976年に日本初開催となった富士スピードウェイでのF1を観戦し、F1メカニックを志し、単身渡英。1978年にサーティスのメカニックとなり、以後数々のチームを渡り歩いた。ベネトン在籍時代の1990年をもってF1メカニックを引退。
日本人F1メカニックのパイオニアとして道を切り開いた。 F1メカニック引退後は、F1ジャーナリストに転身。技術者としてF1を経験した実績を生かし、「ベストカー」などに寄稿。主な著書は「F1グランプリボーイズ」(三推社・講談社発行)
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