1990年代に、国内耐久レースの頂点に位置したN1耐久(のちにスーパーN1耐久→スーパー耐久へ)。そこに参戦した三菱 GTOは明らかに異質な存在だった。ヘビー級スポーツカーという不利な素性を背負いながら、三菱はあえてこのクルマでGT-R勢に挑んだのだ。その裏には、市販車規則の限界を突き詰めた開発と、常識にとらわれない発想があった。PUMA GTOが残した足跡と、その経験が後のランサーエボリューションへとつながっていく過程を、当事者中谷明彦氏が振り返る。
文:中谷明彦/写真:富士スピードウェイ、三菱、ベストカーWeb編集部
【画像ギャラリー】緑色がちょっと懐かしい!! 直線番長っていわれてたけどGT-Rとコーナリング勝負ができた!? 他カテゴリのマシンとも張り合えたPUMA GTOがカッコよすぎる……!(9枚)画像ギャラリースポーツはライバルがいるから面白いを地でいった三菱 GTO!

1990年代半ば、国内耐久レースの最高峰カテゴリのひとつであったスーパーN1耐久シリーズにおいて、三菱 GTOは特異な存在であった。3L・V6ツインターボ、フルタイム4WD、4WSを備えたオールホイールコントロールのハイテク・グランドツアラーであり、同時期にはスカイラインGT-R(RB26DETT・2.6L)やホンダNSX(3L・MR)が市場に並び、国産スーパースポーツが成熟期を迎えていた。
GTOはその中でも最も重量が重く、最も複雑な駆動システムを持つ車両でありながら、三菱 ラリーアートはこの車両でN1耐久レースに挑む道を選んだ。
N1耐久仕様GTOのステアリングを初めて握ったのは1994年後半。メンテナンスを担当するテストアンドサービスチームからの菅生戦でだ。R32型およびデビュー直後のR33型GT-Rが多数を占めるクラス1において、デビュー戦は4位でフィニッシュした。
重量・冷却・駆動系レイアウトという複数のハンデを抱えながらも、GTOが秘めた可能性を示すには十分な結果と言えた。この走りを契機に、三菱ラリーアートは1995年からGTOによるフル参戦体制を整え、より徹底した開発が始動する。
実はサッカーが関係していた!?
PUMA GTOの外装は鮮やかなグリーンを基調にした特徴的なカラーリングだった。これは当時の三菱重工サッカーチーム(現:浦和レッドダイヤモンズの前身)のユニフォームを提供する「PUMA」を国内で展開していたコサリーベルマン社がメインスポンサーについたことによる。
PUMAの意向に応じてレーシングシューズの制作・デザインにも参画し、スパルコ製をベースに、ペダル操作時の滑りを防ぐためにピレリP7タイヤのトレッドパターンを模したソールデザインを提案し、採用された経緯もある。
N1規則は、市販車を極めて厳密にベースとした競技車両によるレースを目的としていた。エンジン外観の完全ノーマル維持、吸排気を含む大半の機構の変更禁止、ボディ外板の形状変更禁止、サスペンション形式の変更禁止などが代表的だ。
改造はロールケージ・安全装備(安全燃料タンクや給油機構)の追加、エアジャッキ装着、ブレーキパッドの材質変更などの範囲に限られていた。
重戦車級のGTOをバトルマシンに!
排気量による最低重量規則も厳しく、2.6L以下とそれを上回る区分では約60kgの重量差が設定されていた。GT-Rは2.6Lの利点を活かし軽量規格で参戦できた一方、3LのGTOは常に重量ハンデを負わされる構図となった。
さらに横置き搭載されたV6ツインターボは巨大で、ボンネット下の空間をほぼ占有し、冷却気流の通路を阻害していた。大型ラジエーターを投入しても冷却空気流量は十分ではなく、常に水温・油温は限界近くまで上昇する。車両総重量約1500kgのうち約1000kgがフロントに集中するという重量配分も、タイヤ負荷とブレーキ負担を増大させていたのだ。
GTOがレースで生き残るためには、重量ハンデをブレーキと旋回性で補う必要があった。そこで三菱ラリーアートはAPレーシング社製6ポッド大型キャリパーとフローティングタイプの大径ディスクローターを採用した。











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