今年、令和4年、2022年は日本における鉄道開業150周年のメモリアルイヤーだ。
日本で初めて鉄道が敷設されたのは首都東京と、幕末から明治新政府初期にかけて外国に向けて開港された港町、横浜を結ぶため。新橋~横浜の約29㎞がその区間で、そのうち約2.7㎞は東京湾の海上に石積みの堤を築いて線路を通したのだ。そんな難工事を敢えて行ってまで鉄道を敷設したのはなぜなのか? そして、その海上築堤区間は今どうなっているのか? 都心を散歩しながら鉄道遺構を探訪した。
文・写真/梅木智晴(ベストカー編集委員)
【画像ギャラリー】日本の鉄道150周年 最初の一歩はここから始まった 高輪ゲートウエイ駅は海の上だった(13枚)画像ギャラリー日本の鉄道発祥の原点、150年前の新橋駅は再開発で今の汐留ビジネス街に生まれ変わった
日本で鉄道が開業したのは1872年(明治5年)9月12日。ただしこれは旧暦で、新暦に直すと10月14日となる。そう、10月14日が「鉄道の日」とされるのはこれに由来するわけだ。今年の10月14日が鉄道開業150周年の日となる。
明治政府は外国に向けて開港した横浜と首都東京を結ぶ交通網として鉄道の敷設を決定した。時は1869年(明治2年)のことであった。つまり、この決定からわずか3年の短期間で東京~横浜の約29㎞に鉄道を建設し、汽車を走らせたのであった。
東京側の起点となったのは新橋駅。しかしこれは現在の新橋駅の場所ではなく、電通本社や日本テレビのある汐留であった。国鉄時代、このエリアは広大な貨物駅が広がっていたが、1986年11月1日、汐留貨物駅は廃止された。都心に生み出された約31ヘクタールという広大な敷地は1995年より再開発が始まり、2002年、「シオサイト」と呼ばれる現在の商業エリアが誕生。同年、『ゆりかもめ』と『都営大江戸線』に汐留駅が開業した。
この再開発事業に際し、開業当時の新橋駅の遺構が発掘され、同地に「旧新橋停車場」として当時の駅舎を復元。鉄道建設時の測量起点となる最初の杭が打たれた地点に「0哩(マイル)標」建植され、モニュメントとしてレールとプラットホームが設けられている。
高輪ゲートウエイ駅は海の中だった!! 東京湾の海上に石積みの堤を築いて鉄道を敷設した
その駅名で何かと話題になった、山手線49年ぶりの新駅「高輪ゲートウエイ」。田町駅と品川駅の間、都営浅草線の泉岳寺駅近くに開業した新駅だが、同駅の開業に合わせて、このエリアに国鉄時代から広がっている広大な車両基地群を整理して再開発する大事業が現在も継続中だ。
鉄道線路の西側(陸側)に国道15号線(第一京浜国道)が並行している。この国道15号線に沿って山手線と京浜東北線の4線が走っていたのだが、東側(海側)に広がる車両基地群を縮小してこの4線を東側に移設する工事が2019年11月に完了。国道15号線と山手線、京浜東北線の線路の間に生まれた空間に新たな商業エリアを再開発。その中心的な存在となるのが『高輪ゲートウエイ』駅という構想だ。
この再開発工事で発掘されたのが『高輪築堤』と呼ばれる石積みの築堤。そう、150年前の鉄道敷設時に築かれた、海上に築き上げられた堤なのだ。
築堤はちょうど移設前の山手線、京浜東北線の線路下に埋まっていた。鉄道開業当時の路盤の上に約150年に渡って主要鉄道路線が走り、超満員の乗客を乗せた通勤電車が数分間隔で走っているというのは、実に感慨深いではないか。
文化庁や港区教育委員会、港区郷土資料館などの資料にあたると、この高輪築堤は現在の浜松町駅の先、本芝付近から海上に築かれ、海岸線に沿うように約2.7㎞、現在の品川駅の先、北品川の付近で陸上に線路が敷かれる区間まで続いた。つまり、現在の田町駅も高輪ゲートウエイ駅も、品川駅も鉄道開業時から数十年間は海岸線から50mほど先の海の上に位置していたのだ。泉岳寺駅の近く、国道15号線の歩道部に江戸時代の「高輪大木戸」跡がある。つまり国道15号線が海岸線で、ここより東側には海が広がっていたのであった。この光景は開業当時の浮世絵にも描かれている。
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