日産自動車史上、いや日本車史上、燦然と輝く名車中の名車、GT-R。1969年2月に正式デビューを果たした初代スカイラインGT-Rから、その軌跡が始まった。
歴代のGT-Rがこれまで辿ってきた歴史を見ると、GT-Rと名乗れなかったスカイラインが存在する。なぜそのスカイラインはGT-Rと名乗ることができなかったのか?
また、なぜ現行R35GT-Rはスカイラインから切り離されたのか? GT-Rの誕生50周年を迎えた今、改めてGT-Rの歴史とともに振り返ってみたい。
初代、2代目スカイラインGT-Rの開発責任者、櫻井眞一郎氏、R32GT-R開発責任者の伊藤修令氏、R33、34GT-R開発責任者の渡辺衡三氏、そしてR35GT-R開発責任者の水野和敏氏と、すべてのGT-R開発責任者を取材している、モータージャーナリストの片岡英明氏が解説する。
文/片岡英明
写真/ベストカー編集部
■スカイラインのイメージリーダー、GT-R
スカイライン2000GT-Rは、3代目のC10系スカイラインの時に加わったスカイラインのイメージリーダーカーだ。1968年10月に開催された第15回東京モーターショーに「R380エンジン搭載車」の名で参考出品され、1969年2月に正式デビューを果たしている。
この時、初めてスカイラインにGT-Rのグレード名が使われた。最初の作品は4ドアのセダンボディで、型式はPGC10だ。
GT-Rを語るためには、2代目のスカイラインに追加設定された「GT」について語る必要があるだろう。スカイラインGTを生むきっかけとなったのは、1963年5月に鈴鹿サーキットで開催された第1回日本グランプリだ。
プリンス自動車はユーザーサポートの形で挑んだが、スカイラインスポーツとグロリアは惨敗を喫した。そこで汚名返上のためにレース部隊を組織し、高性能車の開発に乗り出すのである。こうして生まれたのがGT-IIクラスを制するためのエボリューションモデル、スカイラインGTだ。
スカイライン1500のボンネットとホイールベースを延ばし、そこにグロリアのG7型2L直列6気筒SOHCユニットを押し込んでいる。レースでの公認を取るために100台が限定生産され、決勝レースではポルシェの最新鋭マシン、ポルシェ904GTSと果敢に渡り合った。
その後、正式なカタログモデルに昇格し、S54B-IIの型式を持つスカイライン2000GTへと発展する。後にシングルキャブの2000GT-Aを加えたため、GT-Bと改名した。
このS54Bは「羊の皮を被った狼」と呼ばれ、公道だけでなくサーキットでも速い走りを見せつけている。
このS54Bの後継モデルとして開発し、送り出されるのがスカイラインGT-Rだ。レースで勝つことを最優先から専用エンジンを開発し、ハンドリングにも強くこだわった。
ボンネットの中に収められているのは、量産エンジンとしては日本初となるDOHC4バルブ方式の直列6気筒だ。ニッサンR380に搭載されているGR8型の流れを汲むパワーユニットである。
量産のGT-Rは3基のソレックス40PHHキャブを装着し、ハイオクガソリン仕様で160ps/7000rpm、18.0kgm/5600rpm、レギュラーガソリン仕様で155ps/7000rpm、17.6kgm/5600rpmを発生。当時の2Lユニットとしては世界トップレベルだ。トランスミッションは4速MTが一般的な時代に5速MTを採用した。
ちなみにエンジンの型式は「S20」だが、旧プリンスの設計陣はレーシングを意味する「R20」を望んだようだ。だが、すでに日産には「R」型エンジンがあるため、スポーツの頭文字を取って「S20」としている。
GT-Rの第2弾は、1970年10月に登場したKPGC10型ハードトップGT-Rだ。空力性能やハンドリングをよくするためにクーペボディを採用し、ホイールベースも70mm短くして旋回性能に磨きをかけた。ワイドタイヤを履けるように、リアフェンダーには樹脂製のオーバーフェンダーを被せている。パワーユニットはS20型直列6気筒DOHC4バルブを受け継いだ。
ハコスカのニックネームで愛された3代目スカイラインは、1972年9月にモデルチェンジを行った。C110の型式が与えられた「ケンとメリー」にGT-Rが加わるのは1973年1月(KPGC110型)だ。デザインこそ違うが、基本的なメカニズムはハコスカGT-Rと変わらない。
大きく違うのは、歴代のGT-Rのなかで、唯一、モータースポーツに関わらなかったことである。結局、ケンメリGT-Rは1973年1月〜1973年4月まで、わずか3カ月間の販売のみ。総生産台数は197台、市販されたのは195台という少なさである。
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