交通ジャーナリストの鈴木文彦氏が、1960年代後半からバスの写真を撮影して約50年。それは日本のバスが歩んできた歴史の一端でもある。そこで数万点に及ぶであろう全国のバスの写真の中から、バスの歴史が垣間見える写真を厳選し、そこから見えてくる日本のバス史を解説する。
(記事の内容は、2022年5月現在のものです)
文・写真/交通ジャーナリスト 鈴木文彦
※2022年5月発売《バスマガジンvol.113》『写真から紐解く 日本のバスの歴史』より
■視野拡大の思想はさまざまな形状の窓を生んだ
まずは最初の写真を見ていただこう。東野交通(現関東自動車)が保有していた帝国自動車工業のボディを架装する日野RB10(P)型(1965年)である。
当時一般的には丸みを帯びた前頭部に左右のRが大きなフロントウインドを配したスタイルだったが、上下左右4分割の曲面ガラスに庇の付いた斬新なイメージのフロントスタイルとなっている。
このタイプは“視野拡大窓”と呼ばれ、バスの安全視界向上のため、運輸省主導で研究が進められ、1963年に指定メーカーとなった帝国が試作車を完成し、1964年にオプションとして追加した。従来型に比べてガラス面積が40%拡大し、直前部の死角が大幅に解消された。
全体的なつくりやイメージは1960年代のアメリカのGMのバスに範をとったのは明らかで、下の写真は1994年に訪米した際、すでに後継車にほぼ代替された中、当時のGM車をサンフランシスコの事業者で見つけたので、片言の英語でお願いして車庫で撮影させていただいたものである。
帝国に続いて西日本車体や金産自動車工業、三菱自動車工業も同様の仕様を注文生産、各ボディメーカーとも1965~67年ごろにモデルチェンジを行うが、モデルチェンジ後の新しいボディでも数年間この上下左右4分割タイプが製造されていた。
しかし上下左右4分割のタイプは、複雑な曲面をもつガラスを組み合わせて構成されたこともあって、どうしても価格が高くなる傾向にあり、1968年ごろを境に、視野拡大の思想は通常のフロントガラスを下方に拡大する形に引き継がれた。
下方拡大型の視野拡大窓は帝国、西日本車体、三菱自動車工業に加え、川重車体、呉羽自動車工業、富士重工も製造するようになった。
ただスタイル的には、あまりきれいな表現ではないが、フロントガラスが“べろ~ん”と伸びたような形で、現場からもあまり“かっこよくない”という評価が多かった。特に富士重工R13タイプでは、標準の高さに合わせて傾斜がついていたので、デザイン的にも無理があったようだ。
前半では国鉄が、前半・後半を通して京王帝都電鉄、西武バス、近畿日本鉄道、宮崎交通、西肥自動車、大分バスなどが、後半では東急、茨城オート、鹿児島交通などが好んで採用したが、全国的な普及とまでは行っていない。
後半の下方拡大タイプは、ガラス面積が大きく飛石などで傷つくと交換が高価なことや、当時のHゴム支持で重いガラスを支える強度の問題などもあったようだ。
帝国は日野車体に変わってから1978年ごろまで京王などに納入していたが、多くのメーカーでは1972年ごろ、富士重工も3Eの初期を最後に製造を中止した。
以後は近鉄車についているような左下確認用の小窓が関西中心に普及したのを経て、1980年代以降メーカーサイドで左右非対称のフロントガラスやセイフティウインドの設置で左下の視界向上に取り組むこととなった。
【画像ギャラリー】視野拡大の試行錯誤が垣間見える窓の形状!! 写真をベースに時代をさかのぼる(8枚)画像ギャラリー