今日の路線バスが日頃の足となる前の時代、道路上を走る公共の乗り物のひとつに、客車を馬の力で引っぱる、バスの語源になったオムニバスの大元である「乗合馬車」があった。その乗合馬車、いつ頃まで普通の公共交通機関としての立ち位置にいたのか、ほんのり掘り下げてみた。
文:中山修一
写真:キャプション参照
■明治時代に広まった乗合馬車
日本で乗合馬車が姿を現したのは江戸時代末期、外国人が持ち込み自家用で使用していた馬車で客扱いを始めたのがルーツとの説がある。
日本人経営による初めての乗合馬車とされるのが、1869(明治2)年5月に営業を始めた、成駒屋による横浜〜日本橋間の路線で、同区間を所要時間4時間で結んだ。運賃は75銭。
この乗合馬車は大変な好評を得たそうだが、1872(明治5)年に日本初の鉄道である新橋〜横浜間の列車営業運転の開始と引き替えに閉業している。
また東京でのごく初期の乗合馬車に、1872年頃に開業した雷門〜新橋間の路線があり、こちらは1882(明治15)年に鉄道馬車が営業を始めるまで続いたそうだ。
■大正時代が乗合馬車のピークに
現代の路線バスの原型に近い運行形態が取られた乗合馬車は、明治時代に全国へと広まっていき、しばらくの間は拡大していく。
登録されている馬車の台数のピークは1916(大正5)年の8,976台。この年を境に、1919(大正8)年に6,827台、1922(大正11)年には5,463台と下降に転じているのが数値から見て取れる。
この時点での乗合馬車の減少理由としては、中・長距離路線は鉄道、短距離の主要区間では鉄道馬車→路面電車の台頭によるところが大きく、自動車はまだ直接の競合相手にはなっていなかったように思える。
■昭和初期が淘汰の時代か
さて、大正時代の後半に斜陽へと向かった様子が窺える乗合馬車であるが、ごく普通の移動手段としての公共交通機関ではなくなった時期はいつ頃だったのだろうか。
まずは戦前に発行された交通系の書籍を何冊か開いて、最後の乗合馬車がいつだったのかを確かめてみると、そういった記録をまとめた資料がなく、全国で“最後の最後”まで残った乗合馬車がどれだったのかは不明ながら、各地での最後の例が何件か見つかった。
長野県の上小地方(当時)では宮沢〜霊泉寺間。こちらは国鉄バス吾妻線の開業と引き替えに1935(昭和10)年10月に廃止されている。
埼玉県の例を挙げると、粕壁(現在の春日部市)〜豊岡(杉戸町)間を結んでいた岩槻乗合馬車が最後のほうまで残っていた乗合馬車と言われ、1928〜31(昭和3〜6)年くらいの間に姿を消したらしい。
東京では1930年8月に廃止された大森〜子母沢〜池上間が最後の乗合馬車だったようで、こちらは当時の池上電気鉄道が買収して、ガソリンエンジンで走行する自動車を使ったバス路線へと転換している。
大森〜池上間の乗合馬車に関しては、当時の目線で見ても「よくこんなものが残っていた」と特筆されるくらいの物珍しさを既に放っていたようだ。
また、静岡市内では1929(昭和4)年の段階で登録されていた馬車の数は3台で、数から判断する限り「絶滅危惧種」へと立ち位置が変わっている。
いずれのケースも戦前・昭和の初め頃である点が共通していて、全国的にこの時期に、信頼性や輸送力が向上してきた自動車と入れ替わるようにして、乗合馬車が淘汰されていった場所がかなり多かったと考えられる。




