交通ジャーナリストである筆者の鈴木文彦氏が、約50年に及ぶ取材活動の中で撮影してきたアーカイブ写真。ここから見えてくる日本のバス史を紐解くこの企画。今回はバスが大きく姿を変えた時をご紹介する。
かつては多様なメーカーがボディを架装していた。中にはかなりローカルなボディメーカーも存在した。それらが集約されていくのは1960年代。バスのつくりがフレームレスに移行し、シャーシメーカーとの一体化が進められる中での動きだった。そして1970年代には順次姿を消していった。筆者が記録できたのもその最後の姿である。
(記事の内容は、2023年3月現在のものです)
文・写真/交通ジャーナリスト 鈴木文彦
※2023年3月発売《バスマガジンvol.118》『写真から紐解く日本のバスの歴史』より
■他地域では見られなかったローカルボディ
上は熊本県にあった松本車体製作所がボディを架装した九州産業交通のボンネットバスである。松本車体は戦後まもなくバスボディの製造を手掛け、一貫して熊本県内の事業者を対象にボディを製造、九州産業交通がその最大ユーザーであった。
このボディは1964年ごろでフロントの連続ガラスなどに近代的なイメージを見せつつ、最後部窓や方向幕周辺に松本車体らしい独自性が見られる。1960年代に入ってから川崎航空機との関係が強まり、1965年以降は川崎と同じ図面でボディを製造するが、1972年ごろにボディ製造からは撤退した。
■「ニッコクボデー」として名をはせた新日国の撤退
この時期にバスボディ製造から撤退したメーカーの中には、全国展開をしていたところもあった。代表的だったのは新日国で、戦後の軍需産業から平和産業への転換期に日国工業としてバスボディの製造を手掛け、1949年に新日国工業と改称した。
民生のリヤエンジンバスや日野BH系ボンネットバス、BD系センターアンダーフロアエンジンバスのボディに占める比率は高かった。またいすゞや三菱のボンネットバスでも少なからず見られた。
新日国は1951年に日産自動車の資本傘下に入り、1958年に日産が発売したキャブオーバーバス「キャブスター」の標準ボディとなって日産色を強め、1962年に日産車体工業と改称した。この時点で大型バスの製造は中止しているので、新日国ボディのバスは1970年代前半には姿を消している。
この項先頭の写真は筆者が記録できた数少ない新日国ボディのボンネットバスで、Hゴム固定のスタンディーウインドのRが大きく上下幅があるのが特徴である。
日野BD系のフロントや後部は金沢産業に近いイメージだった。日産キャブスターもすでに筆者が目にする機会は少なく、上の写真は近所に廃車体で残っていたものである。