2022年、国土交通省が「アフターコロナに向けた地域交通の『リ・デザイン』有識者検討会」を設置するなど、地域交通維持の議論が急に活発となった。直接のきっかけは、コロナ禍によって人の移動が減少したことだろう。
日本における公共交通の成り立ちと、公共交通に迫った危機への対策について高速バスマーケティング研究所代表の成定竜一が考察する。
(記事の内容は、2023年3月現在のものです)
文、写真/成定竜一
※2023年3月発売《バスマガジンvol.118》『成定竜一 一刀両断高速バス業界一刀両断』より
■表面化した公共交通の危機
全国紙やテレビでも「欧米では地域交通を公的セクター(自治体など)が担っているが、日本では民間主体のため危機にある」と伝え始めた。
では、諸先進国と異なり、なぜ日本では、公共交通を民間が担ってきたのか。
筆者が大手私鉄系バス事業者でアルバイトを始めた30年前、バスの現場は、民間企業でありながらも、「乗せてやっている」という意識で「親方日の丸」感が強かった。
一方、共同運行先の地方の路線バスは赤字化しつつあった。「高速バスの黒字という身銭を切って地域の交通を守っている」という誇りは高く、当時の筆者もそれに共感した。
同時に、それが永続的なモデルではないことも容易に気づいた。モータリゼーションは着実に進展し、路線バスの赤字額が増加することは明確だったからだ。
それでも「地域のため」という言葉に、一般企業とは違う魅力を感じたのも確かだ。
この頃、バス事業者は、自らの経営と「単なる金儲けではない」という自尊心を両立させ、ある意味で幸福な状態だったと言える。
■営利事業として成立した公共交通
その後、2000年の道路運送法改正により、バス事業は「儲かる路線では競争。儲からないが大事な路線は国と自治体が赤字を補填」という考えに変わった。
「高速バスの競争が始まり、赤字の路線バスを維持できなくなった」という人もいるが、もしこの改正がなければ路線バスの赤字に税金を投入する根拠はなく、バス事業者はもっと苦しんでいたはずだ。
では、それ以前の姿はどうだろう?
高度成長期を振り返ると、田中角栄や小佐野賢治ら、いかにも「金にうるさそう」な面々がバス事業者のオーナーだった事実からわかるように、十分に儲かる事業だった。
ではなぜ日本でバスが儲かったのか。
その答えは、この国の「風土」にまでさかのぼる。日本列島(厳密には明治以前の北海道を除く)の社会は、稲作を基層とする。
「実るほど、コウベを垂れる稲穂かな」ということわざがあるが、イネは実ると重い。多くの米がなるからだ。一方、ビール系飲料「金麦」の缶に描かれたムギは空に向かい直立している。イネとムギでは、それほど収量が違う。
よって、日本を含む東南~東アジアの稲作地域は、狭い土地で多くの収穫を得て多くの人口を維持できた。ただ、よくできたもので、水田をメンテナンスして稲作をするには多くの労働力がいる。結果、子だくさんで人口密度が高く、各家庭は一家総出で農業を営む社会となった。
さらに明治以降、社会は急変した。明治維新時に3300万人だった人口が、近代化や戦後の高度成長を経て150年で4倍に増加。以前なら実家に住み農業を手伝っていたはずの子供たちが高校や大学に進学し、さらに工場など企業で働き始めた。
もともと、公共交通にとって効率がいい人口密度の高さに加え、通勤通学者の比率まで急上昇したのだ。戦後のバス事業は、この「奇跡のマーケット」に支えられていた。