交通ジャーナリストである筆者の鈴木文彦氏が、約50年に及ぶ取材活動の中で撮影してきたアーカイブ写真。ここから見えてくる日本のバス史を紐解くこの企画。今回はバスが次第に豪華になっていった時期をご紹介する。
1970~80年代を中心に貸切(観光)バスのデラックス化をけん引したのはセミデッカーだった。さらに1980年代に入ると、セミデッカーをベースに屋根の段差がつく部分に大きいガラスを配してイメージアップを図った「パノラマデッカー」が活躍した。
このセミデッカーをきっかけとする観光バスの高級化からパノラマデッカーに至る推移を紹介する。
(記事の内容は、2023年9月現在のものです)
写真・執筆/鈴木文彦(交通ジャーナリスト)
※2023年9月発売《バスマガジンvol.121》『写真から紐解く日本のバスの歴史』より
■セミデッカーのさらなる高級化
セミデッカーの登場でよりスマートな外観となったのがきっかけとなり、側窓の連続ガラス化や固定窓化などの高級化が追随した。【写真1】はセミデッカーに連続ガラスの固定窓を配した国際自動車(ケイエム観光)の貸切バスである。
連続ガラスの側窓ではごく初期のもので、カーブドガラスを使用して屋根に側窓を「逆J」型に回したのもこのころが始まりであった。今見てもこのケイエム観光のセミデッカーはスマートで“かっこいい”バスだ。
このころ、中型バス(貸切バスの営業上は“小型”または“マイクロ”)の貸切バスとしての需要も高まっており、中型セミデッカーも登場した。
このサイズの貸切バスでは当時、三菱のシェアが高かったこともあり、中型セミデッカーも呉羽がボディを製造した三菱MKが多かったが、一部富士重工のセミデッカーなども見られた。また、固定窓の採用など、よりハイクラスを意識したものが主流だったのも特徴であった(【写真2】)。
■パノラマデッカーの登場
1970年代半ばになると、セミデッカーの屋根の段差部分に、ワイドでパノラミックな色付きの明かり窓をはめ込んだ大型の突起を設けたタイプが登場した。その突起が外観的なインパクトを強調し、「パノラマデッカー」と呼ばれるようになった。
正式なモデルとしてラインナップされたのは、1975年に富士重工が、第3柱から上がるセミデッカーG型の段差部分を盛り上げたパノラマデッカーP型であった。【写真3】は京成電鉄の事例だが、東京ヤサカ観光バス、相模鉄道など比較的首都圏中心に採用された傾向がある。
1976年には三菱がパノラマデッカーをラインナップした。同時期のセミデッカーはドアのすぐ後ろ、すなわち第2柱のところで段差がつくタイプだったが、パノラマデッカーは窓半分ぐらい後ろの位置から突起を設け、前方と両サイドに3分割された明かり窓を配したつくりだった。
セミデッカーではドアのすぐ後ろの窓から位置を高めたが、パノラマデッカーではドアのすぐ後ろの窓は標準床と同じ低い位置で、第3柱から高くなるスタイルとなった(【写真4】)。
このスタイルが好まれたせいか、パノラマデッカーは三菱を導入した事業者が多く、全国的に普及した。その後1980年に三菱はパノラマデッカーをマイナーチェンジし、突起部分を1枚のパノラミックガラスで構成し、ヒサシ状に屋根を張り出したスタイルに変更した【写真5】。
このマイナーチェンジの時期は54年排出ガス規制適合で形式がMS5からK-MS6に変わった時期とほぼ合致する。このタイプも引き続き好評を博し、全国に拡大した。
なお、パノラマデッカーも各事業者ではワンランク上の車両として位置づけられ、サロンカーや回転シート車での採用も多かった。
側窓を連続ガラスの固定窓にする仕様もかなり見られ、【写真6】は岐阜乗合自動車とそのグループに見られた固定窓に1段下がった最前部窓を独自のデザインにして組み合わせた仕様である。最前部窓はこの写真の丸型のほか、星形やハート形などもあって異彩を放っていた。