■競合の非効率を排して一元化
新潟県中越地方は戦後、長岡鉄道と中越自動車、戦後バスを再開した栃尾電鉄がしのぎを削っていた。
しかし競合の激化などにより3社ともに採算が悪化、1950年に長岡鉄道の社長に就任した田中角栄は、新潟交通から融資を受けて経営を持ち直した。このため当時、長岡鉄道のバスのデザインが新潟交通に似た銀に青帯へと変わった。
一方中越自動車は、労働争議が頻発する中、観光面から東急が1959年に筆頭株主となった。このとき、中越自動車のバスのデザインは、東急に類似した銀に赤帯に変更された。
3社の競合はエスカレートし、バックについた新潟交通と東急、さらに西武・東武など大手私鉄資本の中越進出などによって、状況は複雑な様相を呈していた。
そのままでは共倒れになりかねない状況のなかで、もはや統合以外に生き残る道はないとの結論が3社の労使双方から出された。そして3社の協議の結果1960年10月に3社は対等合併し、新会社の社名を越後交通とした。
このほか現在両備グループで再建された株式会社中国バスの破綻前の中国バス株式会社も、1970年にニコニコバスと尾道鉄道が合併して成立した事業者である。
両社とも戦前からバス事業を行っており、鉄道事業があったため尾道鉄道は独立して戦後を迎えたが、1964年に鉄道を全廃したのちエリアが重複するニコニコバスとの競合が激化していた。存続会社となったニコニコバスは中国バスと改称、バスのデザインも一新した。
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