■角田裕毅がメルセデスの連携を断ち切る重要な役割を果たした
角田はスタートでボッタスとガスリーを抜き、実に20ラップに渡ってボッタスを抑えた。9番手スタートのボッタスだったが、本来なら20ラップ後には3位走行のペレスを威嚇出来る程の位置にいるはずが、角田の好走に足止めされ、単独レースに終始した。角田は見事にメルセデスの連携を断ち切り、ガスリーがトラブルで消えてもレッドブルトライアングルの編隊を維持して、しっかりと9位2点のポイントを獲得。角田の走りはシニカルなジャーナリスト軍団も驚かせた2レース連続の好走であった。
レッドブルは2度目のピットインを30ラップ目に決行、僅か19ラップ使用のタイヤを捨て、新タイヤで27ラップを走らせる過激な作戦でハミルトンにアンダーカットを仕掛けた。
ハミルトンは3位のペレスに大差をつけていたが、プレッシャーは大きく、アンダーカットを仕掛けられたことで予定より6ラップ多く走る作戦に変更せざるを得なかった。唯一の希望は、「7ラップ分新しいタイヤ」であり、ここに僅かなチャンスが残されていた。
ハミルトンの追い上げは凄まじく、8秒の差は最終2ラップ前には1秒台にまで縮まり、もしもDRSゾーンに入ればフェルスタッペンを抜くのは可能だ。しかしフェルスタッペンも負けずに1秒差を維持。
■最終ラップにドラマ。DRSを開いたトップのマックスは、ハミルトンを引き離した!
フェルスタッペンの前には周回遅れのハースを駆るシューマッハ。本来ならば彼は道を譲らなければならい。ここでフェルスタッペンは「前のクルマをどかせろ!」とピットに無線送信するも、19コーナーまでに抜けずいると、ハミルトンがすぐ後ろに来た。
シューマッハは19コーナー後にフェルスタッペンとハミルトンを抜かせ、2台は最終20コーナーにテールツーノーズで進入する。
ところがここでDRSを開いたのは先行するフェルスタッペン、彼はシューマッハの1秒以内に入っていたのだ。後方のハミルトンはDRSが開かずメルセデスはトップスピードでのアドバンテージを失いフェルスタッペンに引き離されてしまった。ここで事実上レースが決まってしまった。
そう、DRSの計測ラインは19コーナー手前、ここで1秒以内に入っていればDRSを使えるのだ。19コーナー前でシューマッハを抜けなかったのは、抜かなかったと考えても良さそうだ。ならばフェルスタッペンの頭脳がアメリカGPを征したといっても良いだろう。こんな凄まじい戦いはまだまだ続きそうだ。
TETSUO TSUGAWA
TETSU ENTERPRISE CO, LTD.
津川哲夫
1949年生まれ、東京都出身。1976年に日本初開催となった富士スピードウェイでのF1を観戦。そして、F1メカニックを志し、単身渡英。
1978年にはサーティスのメカニックとなり、以後数々のチームを渡り歩いた。ベネトン在籍時代の1990年をもってF1メカニックを引退。日本人F1メカニックのパイオニアとして道を切り開いた。
F1メカニック引退後は、F1ジャーナリストに転身。各種メディアを通じてF1の魅力を発信している。ブログ「哲じいの車輪くらぶ」、 YouTubeチャンネル「津川哲夫のF1グランプリボーイズ」などがある。
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