日本のどこにいても備えなければならないのが地震という自然災害。大地震の発生直後、クルマを使った移動はどうあるべきなのかは、ドライバー各々が考えておかなければならないことだ。東日本大震災から14年が経過し、当時の記憶も少しずつ薄らいでいく中だからこそ、震災当日の話は語り継いでいかねばなるまい。3.11のあの夜、自動車交通がどうなったのかをお伝えしていきたい。
※ベストカーWeb編集部注:本記事には東日本大震災に関する記述・画像が含まれております。お読みになるに当たって、御留意ください。
文:佐々木 亘/画像:写真AC(トビラ写真=写真AC)、Adobe Stock
【画像ギャラリー】災害への備えは日頃の思いやりから 3.11の自動車交通から学ぶ (3枚)画像ギャラリー与えられたミッションは会社のクルマで帰ること
東日本大震災の当日、筆者は仙台市青葉区の一番町という中心繁華街で、地震の直撃を受けた。ビル群からは土埃が立ち、今まで体感したことのない大きさの揺れが、ものすごい長さで続いたのを覚えている。
普段はバス通勤だった筆者。この後どうやって帰ろうかと思っていたところ、職場の上司から会社のクルマのカギを渡された。「このクルマを使って、家と同じ方面の女性職員を送っていってくれ」と言われ、急ぎ帰り支度をすることに。時刻は午後5時をまわり、あたりが薄暗くなってくるころだ。
当時、仙台市内のライフラインはすべて止まっている。この状況で「交通」というものがどうなるのか、帰路には不安しかなかった。
緊急車両のための道が自然と出来た仙台市内
仙台市中心部を東西に走るメイン通りの「青葉通」は、ほとんど車通りがなくスイスイと走行できたのだが、ベッドタウンへ向かうために県道31号線へ出るために市道を進んでいくと、すぐに大渋滞へとハマった。
片側2車線の主要な通りは、ノロノロというよりもほとんど動かない状態。次第に陽が暮れていき、街灯も点かない仙台市内中心部は一気に暗闇へと包まれていった。
クルマを走らせながら周囲の建物を見ても、電気が灯っているところはほとんどなかった。ただ、クルマを進めていくと大きな病院に明かりが灯っているのを確認できて、それとほぼ同時に緊急車両のサイレンを耳にしたのだ。
この時、仙台の街を走るドライバーが共通して思ったことは「救急車や消防車の足を止めてはならない」ということだったのだろう。片側2車線の道路にびっしりと並んでいたクルマが、自然と片側1車線に集まり始めたのだ。
暗黙の了解で追い越し車線側から一般車両が消え、緊急車両通行後も、その車線を一般車両が走ることは無かった。
我が我がとなりそうな大災害の直後に、けが人や病人のことを第一に考えた交通を作れたのは、東北人の思慮深さならではだったのかもしれない。
街灯なし・信号無し・警察官なしでも交通マヒが起こらなかった不思議
ゆっくりではあるが、少しずつ前に進むクルマ。ただ、交通集中が起こる大きな交差点ではどうなってしまうのかという心配が、当時の筆者の頭の中にはあった。ここまで信号は一つも動いておらず、警察官も交差点にはいない状態だ。
できるだけ裏道を使い、信号のあるような大きな交差点を避けながら走ってきたが、どうしても信号の交差点を超えなければ帰れないという道に差し掛かった時、筆者は道路上に広がっていた光景に驚いた。
信号の機能していない片側2車線の十字路交差点なのだが、横方向に走行するクルマが一定数通ると、「そろそろかな」と示し合わせたように、クルマが交差点の手前で止まるのだ。すると今度は十字路の縦方向が流れ出す。
これも一定時間が経過するとクルマが止まり、また横方向が流れ出すのだ。右折のクルマも譲り合いで上手く通していて、交差点内がグチャグチャになることは無かった。
交通整理をする人が立っているわけではなく、ドライバー同時の意思を伝えるものはヘッドライトただ一つ。そのヘッドライトを付けたり消したりしながら、「行くよ!」「来ていいよ!」が無言の中で飛び交い伝わっていくのだ。
普段は45分の道のりを3時間かけて帰ったのだが、地震の被害を考えれば、事故に遭わずに帰ってこられたのは運が良かったと思う。それどころか、道中で事故一つ起こっていない状況だったのは、まさに奇跡だろう。
災害発生時は、信号という交通ルールが消えているからこそ、ドライバー一人一人の思いやりや秩序が交通を作り出す。知らない者同士ではあるが、ハンドルを握る同志として心を通わせられれば、大災害時でも自動車交通が死ぬことは無いだろう。
いつ起こるか分からない大災害。日ごろの心構えが、被災時の協力を生み、弱った日本をまた強くするきっかけになる。ハンドルを握ったら、思いやりの心を忘れずに運転してほしい。







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