2025年現在、苦境の真っ只中にある日産。日産が苦境に陥るのはこれが初めてではないが、何度苦境を迎えても消えることなく日産とともに生き続けるクルマがある。そう、みんな大好き、我らがスカイラインの歴史を改めて追ってみよう。
※本稿は2025年6月のものです
文:片岡英明/予想CG:ベストカー編集部/写真:日産
初出:『ベストカー』2025年7月10日号
プリンスで生まれ日産とファンが育てたスカイライン
工場閉鎖、2万人の人員削減など、日産の現状と先ゆきは相当厳しい。そんな時でもCEOが「スカイラインを作る」と宣言すれば、クルマ好きは単純に「やった!」と喜んでしまう。このスカイラインの魔力っていったい何? そこを改めて考察してみたい。
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20世紀において、最も輝きを放っていた日本車がスカイラインだ。1957年に初代モデルを登場させたのは富士精密工業、後のプリンス自動車工業である。戦前の名門、立川飛行機と中島飛行機、その両方の流れを汲む開発陣が指揮を執った。
当時の最先端メカニズムを積極的に採用したプレミアムセダンとして脚光を浴びたが、今につながるスカイラインの流れを築いたのは2代目(S50型)だ。
モータースポーツの重要性に目覚めたプリンスの開発陣は、レースで勝つためにエボリューションモデルのスカイラインGT(後の2000GT)を開発し、送り出している。
サーキットで高い戦闘力を見せたスカイラインは、独自の境地を切り開いた。日産ブランドになり、GT-Rをリーダーに据えた3代目の「愛のスカイライン」の時には日本を代表するスポーツセダンに成長した。そして4代目の「ケンとメリー」を大ヒットに導き、不動の地位を築いている。
これ以降、スカイラインはスポーツセダンの代名詞となり、ライバルにとってのベンチマークとなった。
主役はロングノーズに直列6気筒エンジンを搭載した2000GTだ。だが、4気筒のファミリーグレードでも走りの楽しさとアクティブセーフティには強いこだわりを見せた。
パワーユニットやサスペンションなどに革新的な技術を意欲的に採用し、安全で快適なキャビンも実現している。サーキットでも敵なしの千両役者を演じた。負ければニュースになるほど常勝を誇ったのである。
スカイラインは、広告戦略も巧みだ。高性能を前面に押し出したCMや広告に加え、開発リーダーの櫻井眞一郎さんも広告塔になっていた。
平成の時代になると、後継の伊藤修令さんと渡邉衡三さんがスカイラインの設計哲学を説いた。開発主管を務めた人たちの強い思い入れと愛情がスカイラインに生命を吹き込み、名作を生み出したのだ。
この戦略も当たり、幅広い世代のクルマ好きに愛された。スカイラインのオーナーになることを夢見た人も少なくない。これほど期待度が高かった日本車は、昔も今もないだろう。
だが、21世紀になるとスカイラインは大きく失速した。11代目からV型6気筒エンジンを搭載し、リーダーだったGT-Rもターボ搭載車も整理されている。
このV35型は、スカイラインとしてデビューする予定ではなかったが、経営陣の判断でスカイラインを名乗ることになった(編集部註:諸説あり)。この安易な判断がファンの逆鱗に触れ、その結果ユーザーの信用を失ってしまったのである。
V35型は快適だし、走りの実力も高かった。実際、北米ではヒットしている。実力は高いから、ローレルやセフィーロを名乗っていたらファンは文句を言わなかっただろう。
スカイラインは日本生まれの高性能モデルだ。次期型モデルを日本で愛してもらうなら、日本の風土に合ったスポーツセダンじゃないとファンは納得しない。期待を超えるヤンチャさと独創性がないと熱狂的なファンはスカイラインと認めないのである。


































コメント
コメントの使い方日産は、経営陣のリストラこそ優先して行うべきや。役立たずの取締役なんぞを大勢置いとるから会社が傾くんや。いっそのことトヨタのアキオさんに社長やってもらったら?