戦後復興と経済成長がもたらしたものとは
首都高速は1962年より開通区間が拡大し、東京オリンピックに合わせて都心と羽田を結ぶルートが完成。1967年には都心環状線が完成した。日本橋を覆うように首都高の高架が渡され、銀座地区では楓川、築地川を埋めた河川跡地を半地下で走るルートだ。
カローラのデビューに先んじて同年4月、日産はサニーを世に送り出しており、いよいよファミリーカーの時代が幕を開けようとしていたのが1966年だった。
それを象徴するかのように、最盛期には路線延長約231kmあった都電は、1967年から廃止が急速に進められ、わずか5年後の1972年には現在の荒川線となる区間を除いて全廃された。
まさにモータリゼーション。急速に増加した自動車による交通渋滞が社会問題となり、道路共用して走る都電が邪魔者となっていったのだ。
都電が廃止されるのと入れ替わるように、急速に拡大する首都高速の路線網は、まさに1960年代後半から1970年代、1980年代へとつながる日本の自動車保有台数の急増を象徴する変化だ。
もちろんこれは東京だけの話ではなく、’60年代後半から’70年代にかけて、川崎市、横浜市、京都市、大阪市などで路面電車が相次いで廃止されていった。道路は急増する自動車のための空間となっていったのだ。
一方で急速なモータリゼーションとともに問題視されたのが排出ガスによる大気汚染だ。この当時の日本では工業化が急速に拡大し、工場排出物による大気汚染や河川、海洋汚染が問題視され始めていたが、自動車による大気汚染がさらに公害問題を深刻化させていった。
排ガス規制が本格化するのは米国のマスキー法(1970年)を背景にして施行された「昭和48年排出ガス規制」だが、それに先立つ1966年、「ガソリンを燃料とする普通自動車及び小型自動車の一酸化炭素濃度規制」が運輸省による行政指導の下開始された。1966年は日本における排ガス規制元年と言っていいだろう。
豊かな時代を目指してギラギラしていた
1966年のニッポンは戦後復興が一段落して「もはや戦後ではない」と言われた1956年から10年が経過し、豊かな時代へと突き進んでいた。
それでもクーラーはまだまだ一般家庭には高嶺の花だったし、電子レンジだってやっと出始めた時代。カラーテレビはすでにあったけれど、放送される番組の多くが白黒だった。
カラー放送の番組では画面端に「カラー」と表示されているのを白黒受像機で見ていた記憶が懐かしい。「笑点」、「パーマン」、「ハリスの旋風」、そして初代「ウルトラマン」の放送が始まったのが1966年だ。
国電のラッシュは殺人的で社会現象にもなった。通勤電車に冷房などはなく、夏は窓全開で汗だくで通勤、通学した。山手線に初めて冷房車が登場したのは1970年だが、通勤電車だと1980年代に入ってもまだまだ冷房車の数は少なかった。
それでも働けば働いただけ豊かになれる。経済成長も急速で、次々と魅力的な国産車も登場して、マイカー時代を夢に見てギラギラとしていた。カローラ、そしてサニーがその先鞭となったのだ。
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