今から約25年前、ラグジュアリーでいて、スポーティで、多くの若者が「いつかああいうクルマに乗りたい」と憧れたカテゴリーがあった。それが日産シーマであり、その煌めきを受けて登場したトヨタアリストだった。
80年代後半から90年代後半まで、日本市場で存在感を発揮し、残念ながら現在ではそのイメージの多くを高級(それも輸入)SUVに奪われてしまったプレミアムスポーツセダン。
その「興」と「亡」をふり返ってみたい。もしこのカテゴリーがこのまま日本市場に定着したら、日本自動車界はもうちょっと面白いものになっているのかもしれないが……。
文:片岡英明
■社会を動かしたプレミアムセダンの潮流
かつて、1車種で「現象」と呼ばれるムーブメントを起こしたセダンがあった。「日産シーマ」という。
平成の「ビッグカー」の時代を引き寄せたプレミアムスポーツセダンである。
世界に通用する新しいビッグカーを目指して開発され、昭和の末期、1988年1月に鮮烈なデビューを飾った。
シーマが登場するまで、プレミアムセダンは4ドアハードトップであっても快適性を最優先している。走りは二の次というクルマが多かったのだ。
好まれたのは、フォーマルなシーンに似合う、後席の座り心地がいいクルマである。
このクラスのプレミアムセダンは、一流企業の役員や中小企業の社長が乗るクルマとして使われることが多い。が、4ドアハードトップは、オーナーがステアリングを握るクルマがたくさんある。
そういったユーザーのために向けて開発し、登場したのが、当時セドリックとグロリアの上に位置するシーマだった。最大の特徴はボディサイズと排気量である。小型車枠を超えたビッグサイズで、全幅も広い。エンジンは3LのV型6気筒DOHCで、インタークーラー付きターボも設定した。
シーマが登場するまで、このクラスは全体で年間約3万台(月販約2500台)のマーケットだった。が、販売価格を500万円以上に設定したシーマは、参考出品した1987年の東京モーターショーでセンセーションを巻き起こし、発売するやバカ売れしたのである(1車種で年間販売台数3万台突破)。
この快挙をマスコミは「シーマ現象」と呼び(1988年流行語大賞・銅賞)、大きく取り上げた。バブルの頂点に向かう時期だったことも後押しし、シーマは売れに売れたのである。
■打倒シーマに燃えトヨタが本気で開発
東京モーターショーに参考出品されたシーマを、日産ブースに行って見て、衝撃を受けたのがトヨタの当時の社長だった豊田英二氏だ。お供をしていたクラウンの主査だった今泉研一氏に「うちにはこういうクルマはなかったね。残念だな」とつぶやいたと言われている。
シーマのトップグレード、タイプIIリミテッドは、500万円を超える高級車で、快適装備も先進装備もテンコ盛りだった。
だが、自慢は快適性だけでなく、飛び抜けて高いパフォーマンスだ。最高出力は当時としては圧巻の255psで、その気になれば200km/hを難なく超える。驚いたことにゼロヨン加速は15秒を切っていた。フェアレディZより速かったのだ。リアを沈み込ませ、豪快に加速する様に感動する若者も少なくない。異次元の走りを見せたシーマの大ヒットによって日本のプレミアムセダンの流れは大きく変わった。
ショックを受けたトヨタの首脳陣は、打倒シーマに燃え、9代目のクラウンの開発に乗り出している。
しかし、クラウンはトヨタの看板商品であり、何台も乗り継ぐオーナーが多いから冒険が許されない。そこで新規開発するマジェスタとともに、もう1車種、派生モデルを開発することにした。マジェスタはフォーマル色が強いから、それと対極にあるプレミアムスポーツセダンを送り出すことにする。
こうして開発が始まったのが「アリスト」だ。
年号が昭和から平成になった1989年、消費税が導入された。昭和の時代は高嶺の花だった3ナンバー車は手の届きやすい存在となったのである。
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