■実は開発とデビューが遅れて登場した初代シーマ
「シーマ現象」という言葉が生まれるほど大ヒットした1988年1月登場の初代シーマ。大成功した理由には、短期間ながら日本最強となる255psの3LV6ターボエンジン搭載、3ナンバー専用ボディの採用、500万円という当時としては異例の車両本体価格などが挙げられる。
しかし、初代シーマの成功には「開発の遅れにより、ベースとなった前年の1987年6月登場のY31型セドリック&グロリアと同時に発表できなかったことが功を奏した」という意見もある。
これはいったいどういうことかというと、初代シーマはY31型セドリック&グロリアと同世代の130型8代目クラウンに3ナンバーボディが設定されるという情報や、セドリック&グロリアに対して車格が上となる上級車の必要性が急速に高まっていたことの背景により、急遽開発されたフシがあったようだ。そのことを裏づけるように、初代シーマをテーマにした文献によると、初代シーマの正式な開発開始は1986年4月と記されている。
この時系列では初代シーマをY31型セドリック&グロリアと同時に出すことは不可能で、むしろ「1988年1月に発表できたほうが凄い」と感じるほどだ。ただ、初代シーマがY31型セドリック&グロリアを同時に発表できなかったことは、130型クラウンに対してY31型セドリック&グロリアは善戦したものの、初代シーマが登場するまで痛手だったのも事実ではあった。
だが、年が明けて初代シーマが登場すると、初代シーマはY31型セドリック&グロリア発表の際の追加の予告や東京モーターショーへの出展、さらにここが禍を転じて福となった、「開発と登場の遅れにより、初代シーマはY31型セドリック&グロリアファミリーなのに、クラウンの3ナンバーボディより別のクルマのイメージを持った」こともあり、初代シーマはシーマ現象と言われるほど売れたのである。
初代シーマの牽引もあり、初代シーマを含めたY31型セドリック&グロリア軍団は130型クラウンに肉薄するほど売れ、短期的なものだったにせよ当時の日産の復活、元気な日産を象徴するモデルとなった。
■生産工場設備の制限を逆手に取った初代オデッセイ
1994年登場の初代オデッセイはもともと、アメリカサイズのミニバンとして開発が検討されたモデルだった。アメリカサイズとしてのオデッセイは当時、生産する工場を新たに建設する必要性や新しいV6エンジンができるタイミングといった事情で日本でも販売されたラグレイトの登場まで時間がかかった。
しかし、アメリカサイズのミニバンの開発のためアメリカを視察した開発スタッフは、「マルチに使えるミニバンの素晴らしさ」を日本にも紹介したいという思いで、初代オデッセイとなる当時の5代目アコードをベースにした日本サイズのミニバンの開発を提案。
ただ、初代オデッセイが開発された時期はバブル崩壊やホンダの販売不振という厳しい背景もあり、投資もかぎられた。投資がかぎられたことによる困難のひとつが工場の設備で、工場への投資もかぎられたことにより、初代オデッセイの全高は「ミニバンとしてはあまり高くできない」という制約があった。
だが、初代オデッセイは全高をあまり高くできなかった点やリアドアをスライドドアではなく通常のヒンジドアとしたことが、まだ日本では市民権がなかったため「商用車の延長」とも思われていたミニバンに乗用車的な雰囲気をもたらした。
この点は「ホテルの当時のミニバンで乗り付けると、出入りの業者に思われることもあったけど、初代オデッセイならちゃんと案内してくれる」といった、日本でのミニバンというジャンルの認知にも大いに貢献した。
また、初代オデッセイは未完成なところもあったとも聞くが、いろいろな意味で投資が抑えられたこともあり、成功したホンダ車に共通する「リーズナブルな価格」というDNAを持っていた点も理由に大ヒットした。
結果的に初代オデッセイの大ヒットは、当時絶好調だった三菱自動車との合併まで噂されていたホンダを救い、初代オデッセイに続く初代CR-V、初代ステップワゴンといったクリエイティブムーバーシリーズのプロローグになった。
コメント
コメントの使い方