「禍を転じて福と為す」とは、自分の身にふりかかった災難や失敗を上手く利用して、逆に自分の有利になるよう工夫することだ。人生、「ピンチはチャンス」、「怪我の功名」という言葉があるように、逆風だったことが結果的にいい方向に進むという場合もある。
それはクルマも同じで、ここではそんな「災いを転じて福と為したクルマたち」、つまりデビュー時から通常であればネガなポイントを持ちながら、それをものともせずに売れ、ネガをポジに変えてしまった不屈のモデル4台をピックアップしよう。
文/永田恵一、写真/ベストカーWeb編集部、ベストカー編集部、日産、ホンダ
【画像ギャラリー】これぞ不屈の闘志を持ったクルマたち! 初代シビックなど逆境をものともせず売れたモデル4選(25枚)画像ギャラリー■米国マスキー法クリアの解答として出された初代シビック
1960年代終盤から数年間、ホンダの四輪部門は初の小型車としてリリースしたホンダ1300が重く、コスト高な点など空冷エンジンのメリットとは矛盾するところがある一体式二重空冷エンジンの搭載や乱暴なクルマだったことによる不調に。また、大ヒットしたN360の横転事故の多発などにより、ピンチに陥っていた。
当時、ホンダの四輪部門は四輪からの撤退もあり得る状況だったところ、ラストチャンスとして開発されたのが初代シビックだった。初代シビックはN360とも共通するMM(マシンミニマム・マンマキシマム)思想による広い室内、外国車のような外観の雰囲気により、老若男女が欲しがるクラスレスなクルマだったことなどを理由に大ヒットし、ホンダを救った。
さらに、アメリカではクルマの排ガスによる大気汚染が深刻なものになっていたため、1970年代初めに「排ガスのクリーン度をそれまでの10分の1にする」という、俗に「マスキー法」と呼ばれる非常に厳しい排ガス規制が定められた。
マスキー法は「クリア不可能」とも言われていたが、当時ホンダの社長だった創業者の本田宗一郎氏は「世界中の自動車メーカーが『よーいドン』でスタートするレースなんて滅多にあるものじゃない」と、排ガスクリーン化の研究をスタート。その答えとして誕生したCVCCエンジンは初代シビックに搭載され、初代シビックはアメリカを中心とした海外でも大人気となり、ホンダの躍進に大きく貢献した。
■実は開発とデビューが遅れて登場した初代シーマ

「シーマ現象」という言葉が生まれるほど大ヒットした1988年1月登場の初代シーマ。大成功した理由には、短期間ながら日本最強となる255psの3LV6ターボエンジン搭載、3ナンバー専用ボディの採用、500万円という当時としては異例の車両本体価格などが挙げられる。
しかし、初代シーマの成功には「開発の遅れにより、ベースとなった前年の1987年6月登場のY31型セドリック&グロリアと同時に発表できなかったことが功を奏した」という意見もある。
これはいったいどういうことかというと、初代シーマはY31型セドリック&グロリアと同世代の130型8代目クラウンに3ナンバーボディが設定されるという情報や、セドリック&グロリアに対して車格が上となる上級車の必要性が急速に高まっていたことの背景により、急遽開発されたフシがあったようだ。そのことを裏づけるように、初代シーマをテーマにした文献によると、初代シーマの正式な開発開始は1986年4月と記されている。
この時系列では初代シーマをY31型セドリック&グロリアと同時に出すことは不可能で、むしろ「1988年1月に発表できたほうが凄い」と感じるほどだ。ただ、初代シーマがY31型セドリック&グロリアを同時に発表できなかったことは、130型クラウンに対してY31型セドリック&グロリアは善戦したものの、初代シーマが登場するまで痛手だったのも事実ではあった。
だが、年が明けて初代シーマが登場すると、初代シーマはY31型セドリック&グロリア発表の際の追加の予告や東京モーターショーへの出展、さらにここが禍を転じて福となった、「開発と登場の遅れにより、初代シーマはY31型セドリック&グロリアファミリーなのに、クラウンの3ナンバーボディより別のクルマのイメージを持った」こともあり、初代シーマはシーマ現象と言われるほど売れたのである。
初代シーマの牽引もあり、初代シーマを含めたY31型セドリック&グロリア軍団は130型クラウンに肉薄するほど売れ、短期的なものだったにせよ当時の日産の復活、元気な日産を象徴するモデルとなった。