バブル期に日産が放った小型オープンカーのフィガロ。本格的なスポーツカー乗りにすればどこか見下しがちな存在だったが、なんとスポーツカーの本場のイギリスで、今でも熱狂的な人気を誇っているのだ。そのワケを探ってみよう!
文/ベストカーWeb編集部、写真/日産自動車、ベストカーWeb編集部
■3代目パイクカーとして登場した日産フィガロ
1980年代終わりから90年代初頭といえば、バブル景気に沸いた時代。サラリーマンは経費が使い放題だったし、忘年会は豪華クルーザーを借り切って東京湾一周、なんてことが普通に行われていた。
もちろん日本車もイケイケドンドン。高級車はもちろん小型車に至るまで、新しい技術やデザインがどんどん形になり、クルマ好きにとっては天国のような時代だった。
そんな中、日産の取り組みとして話題を集めたのが、初代K10型マーチをベースに「とんがった限定モデル」を作る「パイク(=まさに「とんがる」の意)カー」という施策。1987年に登場したBe-1を皮切りに89年にはパオが登場するのだが、さらなる第3段として1991年にデビューしたのが、フィガロだ。
フィガロは手動のソフトトップを持つ小さな2+2オープンカー。尻下がりのレトロなFRP製ボディにオフホワイトのトップが載っかったボディが愛くるしく、同じオフホワイトで統一されたインテリアは本革シートともあいまって、コンパクトカーとしてはありえないほどにおしゃれだった。
オープン化によって車重が増したため、エンジンにはパイクカー初の過給機付きを採用。マーチターボが積んだMA10ET型を流用し、76ps/10.8kgmを発揮した。
とはいえ女性オーナーも想定しているだけに、過激さとは無縁。トランスミッションは3速ATのみだったし、足回りはフロントがストラット、リアが4リンクリジッドといたって凡庸な仕様だった。
日産の読みは当たり、フィガロは大ヒットする。当初8000台とアナウンスされた生産台数は、あまりの人気のために2万台まで増産され、3回にわたり抽選販売が行われたほど。当時インスタがあれば映えるクルマの筆頭格となり、大変な騒ぎとなっていたことは間違いないだろう。
ところがフィガロを悲劇が襲う。バブル経済が崩壊し、世間のムードが一挙に節約・質素へと転換してしまったのだ。フィガロの優雅さはどこか時代にそぐわないものとなり、いつしか人々はその存在を忘れつつあった。
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