ベテラン読者のなかには、1970年代に日本の少年たちを熱狂させたスーパーカーブームを覚えている人も多いだろう。国内外のスーパースポーツカーのルックスと性能、そのストーリーに想いをはせた経験もあるはず。
そんなスーパーカーにも、都市伝説めいた話があった。今回は、スーパーカーにまつわる都市伝説をいくつか紹介していくことにしたい。
さて、これから始まる都市伝説、アナタは信じる? それとも信じない?
文/長谷川 敦、写真/ポルシェ、ランボルギーニ、ロータス、Newspress USA
ランボルギーニ創立の話は盛りすぎだった?
イタリアンスポーツカーの代表格として、スーパーカーブーム時代にはフェラーリに匹敵する人気を誇ったのがランボルギーニ。カウンタックやミウラ、イオタといったV12エンジン搭載モデルが憧れの的になった。
そんなランボルギーニ社創業のエピソードにフェラーリがからんでいるという話はブームの真っ只中からあった。
トラクターやボイラー製造販売の成功で財を成したフェルッチオ・ランボルギーニは、自分のために購入したフェラーリの品質に不満を抱いていた。
そこでフェラーリ社に直接その不満を訴えたのだが、フェラーリからの応答はなく、それに業を煮やしたフェルッチオが「だったら自分でフェラーリを超えるクルマを作る」と、自身の自動車メーカーを創業した。
というのが、スーパーカーブームの際に語られていたストーリーだが、実は、この話は事実ではないらしい。
実際には、有能なビジネスマンでもあったフェルッチオが、フェラーリに取り付けられた部品の価格を原価から計算するとかなりの利益が得られると知り「スーパーカーの製造販売は商売になる」と、自動車の製造販売に乗り出したというのが真相といわれている。
結果的にランボルギーニはフェラーリのライバルになり、一時期ではあれど商業的にも成功したのであるから、先に紹介した創業エピソードも、ちょっと“盛って”いること以外は、そこまで荒唐無稽な話ではない。だからこそ、都市伝説として今も語られるのだろう。
ジェームズ・ディーンの呪われたポルシェ
1955年3月に公開された映画「エデンの東」で主役を務め、一躍スターダムにのし上がると、そこからわずか半年後の9月に交通事故で突然この世を去ってしまったアメリカの俳優ジェームズ・ディーン。
自動車レースにも熱心に参加していたディーンは、愛車のポルシェ 550スパイダーでレース会場に向かう途中で対向車と正面衝突して24年の短い生涯を終えている。なお、事故の主原因は対向車のドライバーにあったという。
そしてこの事故から、ディーンが乗っていたポルシェの都市伝説が始まる。
ディーンは亡くなってしまったが、事故当時に同乗していたメカニックのラルフ・ウッタリックと対向車のドライバーは軽傷ですみ、ポルシェにも再利用可能な部品が残っていた。
そこでディーンのポルシェをチューンしていたジョージ・バリスがこのポルシェを買い取り、使用可能なコンポーネントは転売された。
だが、転売されたエンジンを積んだマシンがレース中に事故を起こし、トランスミッションを装着した別のレースカーもまた、事故によってドライバーが命を失う結果になってしまう。
修復不可能なボディは警察署が行う交通安全キャンペーンに展示されることになったが、今度はその保管先であった警察署で火災が発生し、ボディを展示していた高校では、展示台が壊れて1名の生徒がケガを負った。
不幸はさらに続く。ディーン車のボディを運んでいたトラックが事故を起こして運転手が死亡。その後もこのボディを運搬していたトラックが2回の事故にあっているのだ。
最初の事故当時よりも損傷が大きくなってしまったボディは、最後は列車での輸送中に行方不明になった。その後は懸命な捜索が行われたが、結局ボディは見つからなかった。
ディーンの後を追うかのように数奇な運命を辿ったポルシェ 550スパイダー。今もなお、そのボディは誰も知らない場所で静かな眠りについているのかもしれない。
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