“絶対王者”トヨタ プリウスを破り、2018年の登録車販売台数No.1になった日産 ノート。その最大の功績は「e-POWER」にあったのは言うまでもない。
しかし、「ハイブリッド(HV)」というだけで車が売れる時代に、なぜ日産は、わざわざ「e-POWER」という他社と異なるシステムを開発したのだろうか。
2000年代に入ってから長らく、日産はHVでトヨタやホンダに太刀打ちできなかった。
こうした背景が、“逆転の発想”でトヨタ・ホンダと違うタイプのHV=e-POWERを、日産が開発した経緯へとつながる。元日産エンジニアの吉川賢一氏が解説する。
文:吉川賢一
写真:編集部、NISSAN
■(画像ギャラリー)快進撃を続ける日産 ノート&セレナ e-POWER
日産がHVでトヨタ&ホンダに長年勝てなかった訳
日産は「e-POWER」に行きつくまでに、相当に悔しい思いをしてきた。
トヨタが初代プリウスを発売した1990年末、日産のハイブリッド技術の開発は、明らかに出遅れていた。
初代プリウスの燃費は28.0km/L(10・15モード)で、当時の同クラスのガソリンエンジン車と比較して驚異的な燃費だった。
また、プリウスに遅れること2年、ホンダも初代インサイトを発売。燃費は35.0km/L(10・15モード ※5速MT車)という、驚愕の数値を達成していた。
日産が初めて市販したハイブリッドカーは、2000年のティーノ ハイブリッドだった。とはいっても100台限定販売であり、期待の燃費も23.0km/L(10・15モード)という体たらく。
2000年前後と言えば、日産が倒産の危機に瀕して「リバイバルプラン」を発表した頃。
経営状態が危険水域であった時代に、開発費を潤沢にかけられるわけもなく、日産総合研究所にて研究開発が行われていた程度であり、プリウスやインサイトに対抗できるようなハイブリッド技術開発は、やりたくてもできなかったのだ。
時期が定かではないが、おそらく2004年頃、筆者は北米市場向けセダン「アルティマ」のハイブリッド版が走行実験をしていたのを確認している。
しかし、そのハイブリッドシステムは実はトヨタ製だったと聞き、愕然としたのを、筆者は今でも鮮明に覚えている。
勝てないからこそ 「手持ちの技術」フル活用で生まれたe-POWER
その後、日産が右肩上がりで復活したことでハイブリッド開発も進み、2010年11月、ようやく「1モーター2クラッチ式ハイブリッドシステム」を搭載したフーガハイブリッドが発売された。
大排気量エンジンの高級車に低燃費のハイブリッド、という若干ちぐはぐに感じる設定は、日産が「ハイブリッドを載せるならフーガから」というヒエラルキーを重視したためであろう。
また、日産は「将来、世界のモビリティの主流はEVになる」と宣言し、EV推しで舵を切る判断を下していた。EV開発へ潤沢な研究予算を付け、走行可能距離を1kmでも伸ばすため、研究開発に時間を費やしていた。
そして、念願の量販電気自動車「リーフ」を2010年に発売開始。とはいえ、小型車向けのハイブリッドシステムがないことは依然として変わらず、日産は明らかに負けていた。
こうした背景のなかで生み出されたのが、e-POWERと名付けられた「シリーズ式ハイブリッド」(編注:エンジンを発電のみに使用し、モーターで駆動するHV)のシステムだった。
日産が小型車用に開発していた3気筒エンジン、そして、EV用に開発していた小型バッテリー技術とモーター技術。この3つを組み合わせ、EV時代到来までの“つなぎ技術”として「e-POWER」を構築したのだ。
そこからの逆転劇はご存じのとおり、ノート e-POWERはデビューと同時に売れに売れ、日産 ノートが2018年の登録車販売台数No.1になるまでに至った。
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