くろがねの破綻と愛知車輛の誕生
アイチは創業から1992年3月まで「愛知車輛」という社名でした。現在の本社は埼玉県、工場は群馬県であるにも関わらずアイチと名乗るのは、もともとは愛知県で創業した会社だったから。そのルーツは、アイチ創業者の鈴木作次郎氏が、くろがね車の販売会社「愛知くろがね販売」の専務を務めていたところにあります。
くろがね車のメーカーである東急くろがね工業の前身は、源流が1917年(大正6年)という老舗二輪車/三輪車メーカー・日本内燃機で、「くろがね」というブランドも戦前から使われてきたものです。戦時体制下では、ダイハツ、マツダとともに、三輪自動車の専門メーカーとして指定されるほどの大手企業でした。
戦後の1946年(昭和21年)に三輪車生産を再開、朝鮮特需の追い風もあって生産を伸ばしていたものの、1953年以降は景気低迷と競争激化で苦境に陥り、1955年には東急グループの傘下となりました。
1957年、東急が買収した小型四輪車メーカー・オオタ自動車工業と合併し、社名を日本自動車工業に変更(その2年後に東急くろがね工業に変更)。四輪車モデルの充実と商品力の強化を図り、新開発の軽四商用車「くろがねベビー」専用の生産工場まで新築しました。しかし業績挽回には及ばず、1962年1月、ついに経営破綻し、翌月に会社更生法を申請するに至りました。
東急くろがねの経営破綻に伴い、関連会社だった愛知くろがね販売は解散となりました。その従業員の雇用対策として、元社員自らの手で同じ2月に設立されたのが愛知車輛です。つまり保存車は、くろがね終末期のシャシーに、アイチ創世期の建柱用クレーンを架装したクルマだったのです。
なお、東急くろがねはその年のうちに完成車生産をやめますが、日産自動車が東急とともに再建を支援することになり、翌年から日産のセミキャブ小型トラック「キャブライト」(A122型)向け1.0リッター水冷直列4気筒エンジン(オオタE10型の改良版)の供給を担当。1970年には日産が完全子会社化して日産工機へと変わり、現在に至っています。