なぜマツダは復活できたのか? カープ快進撃にわく広島にもその秘密があった!


マツダのどこにそんな底力があったのか。その秘密を振り返ってみよう。

 ご存じのとおりマツダといえば広島ときってもきれない自動車メーカーだ。もともとコルクを作っていた会社(東洋工業)が、3輪トラックの生産に乗り出したのが始まりだ。

 しかし、産声をあげたばかりの自動車メーカーに危機が訪れる。日本人なら誰もが知っているであろう、広島への原爆投下だ(1945年8月6日)。広島は焼け野原と化し、マツダは多くの社員とその家族を失った。

 しかし、そんな状況にありながら、広島の街を元気づけたのも、マツダだったという。壊滅状態だった行政機能を救うため、府中工場の敷地を臨時の広島県庁舎として提供。

 広島の復興を支えるとともに、原爆投下後わずか4カ月で3輪トラックの製造を再開。まさに地元の行政・経済・産業復興の大黒柱として大奮闘する。

 もし、マツダが存在しなかったら、戦後の広島の復興はどれだけ遅れていたかわからない。広島にとってのマツダは、それほど特別な存在だったのだ。

 この終戦直後になめた辛酸にくらべれば、経営危機なんぞちょろいもの。マツダにはそのくらいタフなDNAが備わっているのだろう。

フォードがマツダのよさを引き出した

 マツダの危機のなかでも、おそらくもっとも深刻だったのが1990年代の経営危機だろう。バブル景気に乗り、身の丈を無視した5チャンネル化推進が失敗に終わったのは、多くの人の記憶に残っている。

 マツダはこの経営危機を乗り越えるため、フォードとの関係を一層深める。フォードからの出資比率を33.4%に引き上げるとともに、ヘンリー・ウォレスが社長に就任。

  名実ともに、フォード傘下の会社として再建を目指すことになったのだ。日本の自動車メーカー初のガイジン社長出現に「ついに国産車メーカーが外資の軍門に下った」と話題になった。

1999年12月、38歳の若さで11代目社長に就任したマーク・フィールズ氏

  しかし、このフォードとの関係が、マツダのよさを結果的に磨いていくことになる。奔放なモノ造りしかしてこなかったマツダに、高い効率を要求して意識を変えるきっかけを作ったのはフォードであった。

 また当時、ジャガーやランドローバー、ボルボなどを傘下にしたフォードが、各ブランドの差別化をはかるために、マツダが目指すブランドのビジョンやバリューの方向性を示したことものちのマツダの財産となる。

  この頃つくられたのが、冒頭でも紹介したブランドエッセンスビデオであり、マーク・フィールズの指揮のもとに展開された新しいブランドメッセージ「Zoom-Zoom」である。

  そして、クルマ造りの中心に“走りの楽しさ”を据えるこのZoom-Zoomこそが、バブル崩壊以降の負の遺産を精算して新たな攻勢に転じる旗印としての意味を持つ。

  実際、Zoom-Zoom初のニューモデルとなった初代アテンザ以降、マツダのクルマは「攻め」のイメージへと変わった。業績最悪の時代によくぞこんないいクルマを仕込んでいたと思うくらい。逆境に負けないマツダDNAと、走る楽しさを大事にしてきたマツダのヘリテージが、見事にブランドメッセージと融合したといえる。

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