今年で30回目を迎える鈴鹿でのF1日本グランプリ。節目となるレースは10月7日にいよいよ決勝を迎える。ハミルトン(メルセデス)とベッテル(フェラーリ)のチャンピオン争い、そしてトロロッソ・ホンダが母国GPで入賞できるかどうかにも注目が集まる。
数多いグランプリの中でも同じサーキットで30回を超える開催は極めて稀だ。モナコ、モンツァ(イタリア)シルバーストーン(英国)等に匹敵する、もはやクラシックグランプリの領域に入った。
これまで29回全てに、筆者はさまざまな形で参加してきたが、幾つかのレースは本当に印象に深く、また、私個人の大きなターニングポイントとなった。
1989年、そして翌1990年。世間では「セナ・プロスト事件」で良く知られている鈴鹿でのF1グランプリ。この2つのレースは、レースとしてよりも、私個人の転機として、またF1グランプリそのものの大きな転換期として、印象深いレースであった。
文:津川哲夫
写真:MOBILITYLAND、Honda、Ferrari
【1】1989年/セナ・プロ事件に埋もれた“大金星”
1987年から始まった鈴鹿サーキットでのF1グランプリ。1989年は3回目を迎え、マクラーレン・ホンダがシーズンを席巻、チャンピオン争いはマクラーレンの僚友2人、アイルトン・セナとアラン・プロストの間で争われていた。
セナはシケインでプロストを刺すためにイン側に飛び込んだが、シケインは2台の並走を拒絶。
プロストは自身のレーシングラインを譲らず、セナはピットロード入口のスペースを使って飛び込み、2台は絡み合うように外側のランオフエリアへもつれ込んで停まってしまった。
プロストはそこでリタイア。双方リタイアならプロストがチャンピオンだが、セナはオフィシャルにマシンを押させて再びコースに戻り、ピットイン。新タイヤで鬼神の追い上げ、トップを走るベネトンのアレッサンドロ・ナニーニを追う。
すでにタイヤの寿命が終わりに近いナニーニは必死に頑張るも、セナは再びシケインでプロストに仕掛けたのと同じく強引にインを突き、ナニーニを押し出してトップでゴールを果たした。
レース後にレース委員はオフィシャルによるアシストとシケイン不通過を理由にセナを失格とした。これはそのままナニーニの優勝を意味する。
喜ぶべきナニーニの初優勝だが、かなり遅れて行なわれた表彰台、優勝カップを捧げるナニーニヘ観衆は冷たかった。みなセナの登場を待っていたのだから。
この優勝に関するメディアの取り扱いは極めて僅かで、リタイアしたプロストとその事故の原因を作ったセナが報道を席巻してしまった。
1989年のベネトンの優勝はセナ・プロ事件の陰へと押しやられ、世間の評価も得られず……皆“拾った優勝”としか考えなかったのだ。
この悲しい優勝こそがベネトンでメカニックをしていた筆者の大きな転機となった。
タイヤユーセージの有利さで、間違いなくベネトンにも勝機はあったのだが、これが忌まわしいセナ・プロ事件のおかげで証明できず、悔しさのなかでの優勝だった。
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