【2】1990年/亜久里の快挙とベネトン優勝の舞台裏
翌90年、ベネトンは通算3回ワールドチャンピオン、ネルソン・ピケを得て鈴鹿でベネトン鈴鹿2連勝を決めた。2番手にはロベルト・モレノを従えて。
モレノは鈴鹿前にヘリコプター事故で右手に大怪我を負ったナニーニの代走だったが、ピケに続いて2位でフィニッシュし、ベネトンを1-2フィニッシュに導いた。
このレース、スタートでまたもやセナとプロストが陰険な争いでリタイア、その事故を縫ってのベネトン・ワンツーでの鈴鹿2年連続優勝。ここで始めて日本のファン達はベネトンの競争力を認めてくれたのだ。
そして、このレースは筆者のF1メカニック現役最後の鈴鹿となり、一生忘れ得ぬレースとなった「1990年の鈴鹿」でもあった。
そればかりか、表彰台の3段目には何とロータスのデレック・ワーウィックとの激しいバトルを制した鈴木亜久里(ラルース)が立った。
彼はワーウィックを追いつめ、ストレートエンドであわやの状況をかいくぐり、彼のロータスを見事に交わし、3位を実力でむしり取った。遂に現われた戦うヒーローの姿を観客の目に焼き付けたのだ。
【3】2000年/シューマッハが魅せた至高の王座争い
鈴鹿はF1グランプリ史上多くのチャンピオン決定を担ってきた。記憶に残るのは2000年。フェラーリの復活を担うミハエル・シューマッハと3年連続チャンピオンを狙うマクラーレンのミカ・ハッキネンによる、近代F1史に残る一騎打ちシーズンだった。
ポイントリーダーはふたりの間を行き来し、最終戦鈴鹿がチャンピオン決定戦となった。
ふたりの拮抗した走りは予選から息詰まる戦いとなり、100分の1秒単位で最速を塗り替えていた。
レースではスタートでポールポジション(PP)のシューマッハを交わしてハッキネンがリード。
しかし、雨のタイミングと周回遅れに阻まれ、給油を含むピット作戦でシューマッハが交わし、フェラーリは遂に復活を果たす。シューマッハは3度目のワールドチャンピオンに輝いた。一方で終盤のウェットでのハッキネンの鬼神の走りは凄まじく、観るものを魅了した。
2000年、変貌するF1世界で類い稀なる2人の勇者の、他の誰も近づくことの出来ない領域での、まさに1対1、ガチの真剣勝負であった。
この後2001年を最後に孤軍奮闘型のハッキネンはF1を去り、ここからF1がモダンな管理世界へと突入していった。まさに名実ともに勇者の戦った20世紀最後のグランプリであった。
古い話ばかりだが、鈴鹿は時代が変わろうと、30年を経ようとも、常に名場面を演出してくれる。今回で30回目に至る鈴鹿F1史は、常にドラマを作り続けてきた。
それはどの時代でも鈴鹿がF1ドライバーの全てが愛するサーキットだからだ。
コーナーの種類と起伏に富み、実に繊細で難しくもチャレンジングなサーキット、それが世界に轟く“SUZUKA”なのだ。
◆津川哲夫
1949年生まれ、東京都出身。1978年より日本人F1メカニックの草分けとして数々のチームを渡り歩き、ベネトン在籍時代の1990年に引退。その後はF1ジャーナリストに転身し、TV中継の解説なども務めている
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