2014年11月に逝去した自動車評論家、徳大寺有恒。ベストカーが今あるのも氏の活躍があってこそだが、ここでは2013年の本誌企画「俺と疾れ!!」をご紹介する。(本稿は『ベストカー』2013年12月10日号に掲載したものを再編集したものです/著作権上の観点から質問いただいた方の文面は非掲載とし、それに合わせて適宜修正しています)。
■1960年代のメルセデスベンツ、ポルシェ、そして欧州車

11月になるとめっきり冷え込み、冬が近いことを感じさせる。
先日、メルセデス・ベンツクラブオブジャパン(日本メルセデス・ベンツクラブ)のミィーティングがあり、久しぶりに友人たちと再会した。台風が近づき、心配したが琵琶湖畔で無事に開かれた。毎年秋に総会が行なわれ、今年で40回目になる。このクラブに私が入会したのは280SEクーペ3.5の初代を手に入れた時だったと思う。その後いろいろあったが、今日まで30年以上入会している。
当時、まだメルセデスはそれほど知られておらず、一部のメルセデス好きが集まっていたに過ぎなかった。
確か私は280SEクーペ3.5のほかに280SLにも乗ったりしていたが、そのほかの会員も190SLや220S、同SE、そして何人かの300SEがいた。
1960年代後半に誕生した300SEは超高級で、特にSELとなるW109はインジェクションエンジンに加え、もちろん、エアサスペンションも持っていた。当時からメルセデスは高価で、高性能だったが、多くは大使館ブルーと呼ばれる外交官ナンバーのメルセデスが多かった。
W108の300SEはストレート6の3L、170psであり、優に100マイル(約160km/h)を超えるスピードが出た。しかも4輪ディスクブレーキの効きのよさは日本車からは想像もできないものだった。100マイル(約160km/h)からでも自信を持ってストップがかけられた。アメリカ車が全盛の時代で、私も乗ったが、ブレーキの点ではまるで比べものにならなかった。
アメリカ車はオートマチックが多くエアコンも付いていたが、それもまだ不完全なものであった。さしものベンツもこの点に関してはキャパシティの大きなV8を搭載するアメリカ車には負けていた。ことエアコンということではアメリカ車がリードしていてヨーロッパ車がそれを追いかけていた。しかし、途中から参入したジャパニーズカーがエアコンに関しては驚くほど優れていた。
当時日本の夏は輸入車にとって“禁物”で、都内ではよくエンジンフードを開けている車が多かった。しかし、ことスポーツカーということに関してはイギリス車を中心にヨーロッパ車が強かった。MG、ジャグァ、サンビーム、トライアンフ、シンガー、モーガンなど多数あった。特にジャグァXK120、140、150そしてEタイプ。MGのTC、TD、TF、Aと続くイギリスのナッフィールドはスポーツカー作りが上手だった。
MGはモノコックボディのスポーツカーMGBを出し、これに対してスタンダードのトライアンフはTR3、TR4、TR5、TR6と出しMGと競合した。私はトライアンフが好きでTR3、TR4と乗った。乗り比べてみると、MGBのほうがよかった。モノコックボディでしっかりしていたからだ。
ポルシェはまだ356だったが356スーパーに始まり、パワーモデルのスーパー90、そしてSCと発展していった。この間にポルシェはコンペティションモデルであるカレラエンジンを持つ904を市販した。わずか650kgのボディに180psのDOHCエンジンを持つ超弩級スポーツカーだった。
ポルシェ904は6気筒エンジンを積んだ904/6、906、910、907、908と発展し、レースで勝ち続けた。特にシチリア島で行れた公道レース、タルガ・フローリオには強く本命フェラーリと互角以上に戦った。
そのうちポルシェはスポーツカーレースの本命というべき耐久レースでも優勝を飾るようになる。この時代のポルシェの活躍に大いに貢献したのがアバルトであろう。ポルシェのレーシングエンジンとアバルトの軽量化技術はポルシェをより強力にした。
より強力なエンジン、より強靱なシャシを手にし文字通りツールドチャンピオンになっていく。今やポルシェを凌ぐスポーツカーメーカーはない。フェラーリはあるが、生産台数はまるで違うし、パナメーラやカイエンなどスポーツカー以外も販売するまでになったのは皆さんもご存じの通りだ。
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